3より続き
外に出ると、このあたりもさすがに雨はやんだようである。
時刻は3時半。
できれば、浜松の次の駅高塚まで行っておきたいと思っていたが、時間はかなり微妙。
何せ、日の入りの時刻が早くなってきているので、高塚に着く頃には日は暮れてしまっているだろう。かといって、ここで終わらせるにはまだ早く中途半端だし・・・
迷ったが、次回を楽にするため、がんばって歩くことにした。
大手門跡まで戻ってきて直進する。
ここからは、6つの本陣跡、問屋場跡、高札場跡、中番所跡などが続くが、いずれも駒札があるのみ。このあたりは戦災で焼失してしまったらしい。
その中の佐藤本陣は、なんと225坪。大きいですねぇ。


その向かいにある大きな鳥居は五社神社。
かつては国宝の社殿で立派だったらしいが、ここもまた戦災で焼失してしまっている。ということで鳥居のみ写真を撮って進む。
浜納豆のお店(これまた買いそびれた)のところを右折、ここに西番所跡があるはずなのだが見当たらず・・・
しかし、ここで浜松宿は終了である。

少し進むと、子育て地蔵尊があった。
戦災で顔の一部が欠けてしまったことから首なし地蔵とも言われているらしい。
東海道は、ここから左の細い道に入るのだが・・・
うっかり直進してしまい、慌てて元に戻る。先を急いでる時に限って間違える、というのはよくあるパターンだ(笑)。まったくもう・・・

小学校の隣に掘留ぽっぽ道があり、機関車があった。
かつて、JR浜松工場までの引き込み線として使っていたところで、この機関車は、大正7年に作られた軽便機関車。なるほど、それでちっちゃいわけだ!

東海道線をくぐるとまっすぐな道が続く。
八丁畷である。
比叡山の僧兵たちが鴨江寺を襲撃した際、鴨江寺の僧が鎧を着て戦ったといういわれのある鎧橋を越えた先に、八丁畷の案内版があった。
若林一里塚跡を通りすぎ、八丁畷が終わったところで道は右に曲がる。
その角に道路にむかいあって建つのが二つ御堂である。
藤原秀衡が京で病気になったことを聞いた妾がこの地で秀衡の訃報を聞き、秀衡の菩提を弔ったが、自分もここで亡くなってしまった。しかし、秀衡は実際は病気から回復し、帰国途中に妾のためにお堂を建てた。

南側のお堂が妾の建てた薬師堂で明治天皇野立所祈念碑がある。

北側のお堂が秀衡の建てた阿弥陀堂で、高札場跡、馬頭観音がある。
この先、松並木があるが、やはり片側のみ。
次第に日も暮れてきた。

ふと振り返ると美しい虹が!
しかも二重の虹が出ていた。

そして、先に進むときれいな夕陽。
いやはや、この日は雨が降ってテンション下がり気味だったが、一気にテンションアップ!
この景色を見られただけでも歩いたかいがあったというものだ。
昭和22年まで人工の池があり水神を祀っていたというみたらし池跡を通り過ぎ、その先に明かりの灯った常夜灯が。

秋葉常夜燈籠である。ちゃんと今でも照らしているのですね。暗くなってきたところだったので、これあってよかったかも~
ちなみにここの常夜灯は木造屋形の鞘堂である。

GUの駐車場の角に領地境界の標柱があった。
浜松領と堀江領の境界である。
帰宅して気付いたのだが、ここを曲がったところにある餃子やさんで、以前浜松にきた際、浜松餃子を食べたのだった。おいしかったな~
少し進むと、堀江領境界石があり、さらに進むと高札場跡と秋葉燈籠跡が。
もうこの時間には日がとっぷりと暮れて、マップも明かりがないと見えない状態。冬はペンライトが必要ですね。今度から持っていこう。
そろそろ高塚駅が近いはずなのだが、どこを曲がればよいかわからない。
ようやくここじゃないかというところを曲がってみると・・・
ああ、よかった駅に向かう道だった。
駅で切符を買い、5時52分の東海道線に乗り、浜松駅へと戻る。
新幹線はちょうどひかりがあったのだが、もうあまり時間がない!
慌ててトイレに行き、お弁当とビールを買い、急いでホームへ。
ふー、ぎりぎりセーフ。

とりあえず空いている席に座り、静岡駅で2席の席へと移って、お弁当(&ビール)タイム!
ホントは、家康くん弁当が欲しかったのだが売り切れで、今回は赤飯弁当。
おかずはまあフツーだけれど、お赤飯は大好きなのでうれしい。わさび漬けも入っている。
前回までは静岡限定ビールがあったのだが、浜松駅では見つけられなかった。もうここまでくるとないのか、もうちょっと探せばあったのか・・・
また、時間がなかったため、おみやげも買えなかったのも残念だ。次回は是非ゆっくり見よう。
東京駅には7時40分着、自宅に着いたのは9時ちょっと前だった。
約48000歩。
次回は11月末。
新居まで歩く予定です。
(完)
最近のコメント