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2018/02/26

東海道五十三次歩き(第15回) 浜松~新居2

(1より続き)

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松並木がそろそろ終わり、国道1号線と合流する手前にずんぐりむっくりの像が。
空を見ながら太鼓をたたいている少年の像は浪小僧である。
漁師が網に引っかかった真っ黒な小僧を気味悪がって殺そうとすると、海が荒れたら太鼓をたたいて知らせるからと命乞いをしたので海に帰した。それ以来、天候の変わり目に波の音がするようになったと伝えられているそうだ。

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国道と合流し、少しだけ国道を行くとあるのが白王稲荷神社。
いろいろな顕彰碑、記念碑などがあるが、一番の特徴は白い鳥居ですね。

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そしてまた旧道に入っていくと現れたのが、両サイドの見付石垣。舞坂宿(昔は「坂」の字)の東のはずれである。昔は六尺棒を持った番人が立って、出入りを監視したと言う。

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そして、新町常夜灯と一里塚跡。
江戸時代、舞坂は火事が多く、特に1809年の大火では宿場の大半が焼けてしまった。これをきっかけに火伏せの神である秋葉信仰が広がり、常夜灯が建てられたという。
外側についている明かりは今も使っているのだろうか。

舞阪の名物はしらすとのり。
ということでお店がいくつもあった。

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仲町常夜灯の先を入っていくと宝珠院がある。
境内の墓地の入り口に舞阪の海苔産業に貢献した森田屋彦之丞と大森三次郎の供養碑があった(地元の方が教えて下さった)。
清水次郎長の子分だった富五郎の墓もあるとのことだったがみつけられず。

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岐左神社には、赤猪石があった。
兄君たちによって落とされた真っ赤に焼けた大石で大やけどを負い死んでしまった大国主命は、岐左神社の御祭神によってよみがえった(古事記)。その石という。

11時半近くになったので、脇本陣などを見学する前にお昼を食べることとし、いったんは素通りする。
うなぎのお店、つるやにて昼食。

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頼んだのは二段丼(並)。
一見フツーのうな丼のように見えるけれど・・・

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なんと食べ進めると、中にも鰻が入っているのだ(食べかけで写真はちょっといまいちだけども(笑))。
これで2500円は安い!
それより、ふっくらした関東風の鰻がとてもおいしい。ここまでくると関東風のうなぎと関西風のうなぎが混在しているが、やはり関東出身のワタクシとしては関東風の方になじんでいるので・・・

おなかがいっぱいになり、また歩き始める。

南雁木跡(がんげと読む)。渡荷場とも言った。
舞坂宿には3カ所の渡船場があり、北雁木が大名や幕府役人、公家用、中雁木が武家用、南雁木が一般庶民及び荷物用だったという。

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南雁木には今は水神宮がある。

再び東海道へと戻る。

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本陣跡の標柱の写真を撮り、脇本陣(茗荷屋)を見学する。
書院棟が残されていたのを、平成7年復元したもの。東海道では唯一の脇本陣の遺構である。
スタッフの方から説明しましょうかと尋ねられたので、お願いすることに。

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さすが!大名や公家・幕府役人が利用する間はゴージャス!(上段の間)

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お風呂もお手洗いも漆塗り。

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庶民用のもそうだが、お風呂は真ん中に向かって板が斜めになっていてお湯が流れる仕組み。

二階の格子は、中からは外がよく見えるが、外からは中が見えない仕組みらしい。

見学を終え、角にあったのが西町常夜灯。3つ目の常夜灯。

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中雁木跡を道は右折、少し進むと北雁木。こちらだけが現存する。
雁木の名の由来は、石畳が階段状になっているのが雁の行列のようだからということらしい。
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海苔養殖の基盤を作り、宿役人として活躍した那須田又七の顕彰碑を見て、舞坂宿を出る。

(3へ続く)

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