東海道五十三次歩き(第19回) 箱根2
(1より続き)
坂を上がっていくと、割石坂の石碑があり(曽我五郎が刀の切れ味を確かめるため、巨石を真っ二つにしたところ)、そこから旧道へと入っていく。
石段を上がった先に江戸時代の石畳が。そう長い区間ではないけれど、この不規則さが、昔の石畳っぽいなあ。
陽の当たらないところはまだまだぬれていて滑りそうなので、ここからストックを使用する。
箱根路のうつりかわりの説明板の先には昔、接待茶屋があったという。旅人や梅に湯茶を飼葉を提供する茶屋である。
木の橋を渡る。
水がきれいだ。
はじめのうちはコツがつかめず、何度か滑りそうになったが徐々に慣れてきた。
こけの上にうっかり足を置いてしまうとつるっと・・・
このあたりから石畳の構造についての案内板がちょくちょく出てきて、一応全部読んだのだが、もう頭から抜けてしまったのが情けない(笑)
はじめは竹を毎年敷きかえていたというから大変だったでしょうね。
大澤坂の石碑。
当時の石畳の道がいちばんよく残っている坂とのことである。
史蹟旧街道の碑の先で県道へ合流。間の宿の畑宿である。
合流したすぐ先に道祖神があったが、形が判別できない。
宿の雰囲気残ってますね。
そして、このあたりは寄せ木細工が有名ということで、たくさんのお店や工場が並んでいた。
畑宿は箱根東坂のほぼ中間地点で、本陣があった(今は跡のみ)。
茗荷屋本陣であるが、庭が立派でハリスなども感嘆したという。
駒川神社の入口に12の御利益が書いてあった。なんでもオッケー?(笑)
上がっていくと、太子堂があるのだが、聖徳太子は大工職人たちの工匠の祖として尊敬されたとのことで、寄せ木細工の町ならではなのだろう。
再び旧道へと入る。
入口に一里塚(23番目)。大きい!しかも両側にある。
明治時代以降に一部が削られてしまい、その後復元整備されたものとのことで、右がもみの木、左がケヤキとのこと。
史蹟石畳橋で新道を越え、西海子坂へとさしかかる。
石畳の上を流れてきた雨水を外に追い出すための斜めの排水路。確かに斜めになっているのがわかりますね。
この後、県道を通りつつ、ショートカットの階段も登りつつ、上がっていき(県道はヘアピンカーブ)、橿木坂の石碑の先には・・・長い階段が。
一気に上がっていくと、右が車道への道、左が旧道で、上の方に見晴茶屋が見えた。
甘酒橋を渡り、少し進むと猿滑坂。
「殊に危険、猿候といえでもたやすく登り得ず、よりて名とす」との由来があるらしい。
その先の横断歩道で県道を渡り、道は崖の上へと続くが、少しの間また県道を歩く。
ここからはるか向こうに海が見えた。
追込坂の石碑のところからまた旧道へ。
ここには笈の平の石碑もある。
東国の教化を終えて帰る親鸞が弟子と別れた場所とのことである。
ゆるやかに登っていき、12時半、ようやく甘酒茶屋に到着した。
二子山のふもとで江戸初期からある茶屋で、いい雰囲気。
箱根の道中に甘酒をふるまう茶屋が9カ所あったそうだが、現在はここのみが残っているそうである。
ここで昼食。
甘酒(麹と米だけで作られており、やさしい甘み)、みそおでん(玉こんにゃくを自家製味噌で。この味噌がおいしい)、力餅のいそべとくろごまきなこ(毎朝ついたお餅。きなこがいい!)。
酒粕で作った甘酒はあまり好きではないのだが、これはおいしい!
(3へ続く)
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