東海道五十三次歩き(第22回) 国府~美合(御油・赤坂・藤川宿)3
(2より続き)
安政6年の常夜灯、聖観世音菩薩を祀る観音堂、地蔵菩薩を祀る地蔵堂を通りすぎた先でとうとう国道1号線に合流した。
これから先、2キロは国道を歩かねばならない。
空気は悪いし、暑いしで、とにかく黙々と歩く。
唯一の楽しみは、国道のすぐ脇を走る名鉄の車両を見ること。
赤系、白系、銀色系とあるが、白でも銀色でもどこかに赤が入っている。
岡崎市に入ってすぐ、本宿村の説明板があり、冠木門をくぐる。
本宿は赤坂宿と藤川宿の中間にあり、立場として繁盛した場所である。
もう少し進むと道標と説明板があり、ようやく旧道へと入る。ほっとする。
と、岡崎市のマンホール発見!
岡崎城とやはぎはしがデザインされている。
連子格子の旧家の向かい側に法蔵寺がある。
入ってすぐのところに御草紙掛松。
幼少期の家康が手習いの紙を干したという松だが、現在の松は四代目という。
鉢地川にかかった赤い来迎橋を渡り、地蔵菩薩を見て石段を上がる。常夜灯は文政11年のものとのこと。石段の脇には日本武尊に因んだ賀勝水という井戸もある。
立派な鐘楼門をくぐった左には行基が植えたと言われるイヌマキと家康公お手植えのヤマザクラがあった。
六角堂の横を通り、少し上がったところにあるのが近藤勇の首塚。
京都で晒された首を同士が盗み、近藤が敬慕していた和尚の転任先のこのお寺に埋葬したという。隣に立派な胸像もある。
松平家(家康の長女亀姫、異母兄弟忠政など)及び三方ヶ原合戦で死んだ者たちの墓、東照宮(江戸初期からあるそう)を見て、下る。
本宿陣屋跡と代官屋敷(現在は富田病院。代官食は富田家が世襲した)の説明板を過ぎ、本宿村道路元標、寛政13年の秋葉山常夜灯の先に本宿一里塚跡(78里目)。
さらに進むと、長屋門が見えてきた。
医師の宇津野龍碩氏邸跡である。当時としては画期的な種痘を施した蘭方医だそうだ。
ちょうど持っていた麦茶が終わりそうだったところにコンビニが現れた。
座るところもあったので、アイスと冷たいものを買って休憩。
この日は曇りの予報だったのだが、ほぼ太陽が出ていて予想以上に気温が上がってアチアチになっていたのでアイスがとてもおいしい。
復活して出発する。
本宿を出たところで、再び国道1号線に合流。またしばらく黙々と歩く。
1キロちょっとで再び旧道へ。
名電山中駅を過ぎた先で跨線橋を渡り、興円寺へ行ってみる。
ここでまたまた馬頭観音(これは三面六臂)に出会う。
地蔵菩薩、六地蔵尊の他、不動明王も発見!
松の木が少し残る中を通り、国道にまたまた合流。
ちょっと街道をはずれて山中八幡宮に行ってみることにした。
入口に御開運御見隠山碑があり、突き当たりに巨大な常夜灯が。
これは目立ちますね。天保4年のものとのことだ。
周りに広がるのは麦畑。藤川宿が近づいて畑は麦畑になった。
山中八幡宮の鳥居をくぐると大きなクスノキがあり、神門の手前で左に折れると、三河一向一揆に破れ逃げてきた家康が隠れたという狭い洞窟がある。
洞窟から鳩が出てきたため、人がいるところに鳩がいるわけはないと追っ手が通りすぎ、家康は助かったという。
本殿の裏にまわり、奥宮神籬(ご神木がある)の先を下って国道へと降りたのだが、道は結構急で滑りそうになった。こういう時はストックがほしい。
(4へ続く)
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