東海道五十三次歩き(第24回) 新安城~知立宿~鳴海宿2
(1より続き)
国道1号線を渡り、名鉄三河線の踏切を越え、東見付跡(いよいよ知立宿!)を右折して慈眼寺へ。江戸時代初期に馬の供養のためにつくられたお堂から始まったお寺という。
入口に家畜市場標柱がある。
知立は広重の絵にも描かれているように馬市が栄えたところで、昔は八橋の鎌倉街道近くの野原で開かれていたが、明治になってこのお寺の境内に移り、馬が牛に変わり、鯖市も兼ねていたが、昭和18年終了した。
このお寺には馬頭観音が祀られているとのことだが、60年に一度(!)しか公開されないそう・・・
そして、いろいろなお地蔵さんが!
大地蔵(延命地蔵)。
蚕地蔵。
マンマ地蔵(歯地蔵とも呼ばれ歯が痛い時にお参りすると治るとか)。
そしておびんずる様。
ん?これはこの前国府観音で見たのとは違って顔は赤くないんですね。
東海道に戻り、先を進む。
大根切干買入所、常夜灯を過ぎる。
知立の別バージョンのマンホールは、やはりかきつばただ。
問屋場跡の石柱を過ぎ、少しはいったところに本陣跡がある。東海道沿いからここまで敷地があったということですね。
明治天皇行在所聖跡碑もあった。
山車庫があったが、これは2年に一度行われる知立まつりの本祭(祭りじたいは毎年行われる)で練り歩く山車が保管されているという。この本祭では人形浄瑠璃「山車文楽」と「からくり」が上演されるという(国指定重要無形民俗文化財、ユネスコ無形文化遺産)。
宝蔵寺にあったのは加賀野井弥八郎の墓と追腹塚。
石田三成の家臣で美濃猪鼻城主の弥八郎は家康暗殺を命じられたが果たせず、池鯉鮒宿で刈谷城主水野忠重を殺害したものの、同席していた駿府城主堀尾帯刀に討ち取られた。
忠重の家臣2名が責任をとって切腹。それが追腹塚(供養塔)とのこと。ややこしい・・・
西国四国三十三所観音菩薩もあった。
街道が曲がる手前に知立古城址。
知立神社の神主氷見氏の居館だったが、桶狭間の戦いのあと、織田軍によって落城したとのことだ。
曲がってすぐにあるお店があんまきのお店、小松屋本家。
楽しみにしていたお菓子だ。
黒あんと白あんがあるとのことだったが、黒あんをチョイス。
お店の中でいただくことに。
目の前で焼いていて、できたてであたたかい。
いや~おいしいなあ。
東海道沿いでいろいろとお菓子を食べてきたが、1,2位を争うおいしさ!
大満足で、再び歩き始める。
すぐに現れたのが総持寺跡の大イチョウである。
移転前の総持寺の境内にあった巨木で樹齢200年以上とのこと。
ちょっと寄り道。右に折れて知立公園へ。
多少雨でもこの日歩こうと思ったのは、ここで20日まで花しょうぶ祭が行われているから。
さすがに一番の見頃は過ぎてしまった感じではあったけれど、まだまだたくさん咲いていてキレイ。
やはり、この日、歩くことにしてよかった!!
お隣の知立神社にも寄ってみる。
まず目に飛び込んでくるのが国指定重要文化財の多宝塔。重厚だ。
神社の裏にも花しょうぶが咲いている。
享保17年(1732年)に造られた太鼓橋。向こうに見える建物は神楽殿だ。
拝殿は天保2年(1831年)造営。
知立神社は東海道三社(他は三嶋大社、熱田神宮)の一つで、マムシ除けの護符を持っていれば蛇の難を避けられるとして人気がだったという。
このあたりがもう知立宿の西木戸である。
街道に戻り、総持寺へ。
洗心水琴窟があったのでやってみる。
続けて7杯、水子地蔵に水をかけると・・
確かに鳴った!
不動明王。
如意輪観音。
家康の側室、お万の方の生誕地碑があると聞いていたのだがない・・・
と思ったら、山門の脇にあった。
(3へ続く)
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