中山道六十九次歩き(第2回) 武佐宿~愛知川宿~高宮宿4
(3より続き)
旧豊郷小学校はこの町出身で丸紅の専務だった古川鉄治郎の寄付で建てられたものでヴォーリズの設計。縦長の窓が並んでいるのが特徴。けいおん!のモデルになったところなのか!
スズムシバナの群生地があった。鈴虫が鳴く頃に咲く花だそうだが、この町のものが自生しているものでは北限だそうだ。
阿自岐神社社標を通り過ぎ、出町交差点にさしかかる。南側は甲良町だが北側は彦根市。甲良町は一瞬で終わる。
東屋があったので少々休憩、けやきと松並木を通りすぎると彦根市のモニュメントがたっている。
西側には「おいでやす」、東側には「またおいでやす」と書かれていて、近江商人、旅人、麻の荷を担いだ女性がのっかっている。
堂の川地蔵尊の先に若宮八幡宮。通称産の宮。足利尊氏の子、義詮の妾がこの地で死産、妾は尼となったという。
月通寺(別名柏原地蔵・・・は見られない)の先は、松とカエデの並木になっている。
一里塚跡の石柱があったのだが・・・途中から折れて倒れている。直したりしないのだろうか・・・120里目。
むちん橋を渡る。
当初ここには橋はなく、川越人足のよる渡しだったが高く、豪商である藤野四郎兵衛が無料で渡れるような橋を作って無料で渡れるようにしたため、無賃橋と言われるようになったという。
渡りきるとむちんばし地蔵尊がある。お地蔵さんは昭和52年の橋脚改修工事の際に出てきたものだという。
いよいよ高宮宿に入ってきた。多賀大社の門前町として栄えたところで、中山道の宿場の中では本庄宿につぐ規模だったという。街並みは静かで街道らしい雰囲気。
彦根市のマンホールは市章を幾何学的に配置し、外周に市の木のたちばなを描いたもの。ひこにゃんのマンホールもあるらしいが、お城のまわりとかにしかないのだろうか?
旭川庵という和菓子やさんに寄って近江名物丁稚羊羹をおみやげに買う。
刻んだ栗が入っていて、甘さ控えめでおいしい。
丁稚さんでも買えた羊羹など、諸説ある模様。
円照寺はとても立派なお寺。
なんでも家康の腰かけ石があるとのことだったが、見つからず、残念・・・
明治天皇ゆかりの止鑾松。
本陣跡。表門が現存。
脇本陣跡を通り過ぎ(脇本陣は2軒あったそうだ)、高宮寺。
井伊家第4代藩主直興公が寄進した延命地蔵菩薩。まわりには地蔵たち。
小林家の前に芭蕉の紙子塚の説明板と碑があった。
芭蕉が小林家に泊まった際、「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」 と詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、庭に塚を作り古い紙子を収めて 「紙子塚」 と名付けたのだそうだ。
多賀大社の一の鳥居。
高さ11メートルで滋賀県最大。
いい感じの街並みが続く。ようやく降ったりやんだりしていた雨もやんだ。
座・楽庵の看板のある建物は問屋場布惣(ぬのそう)跡で、建物は登録有形文化財。高宮布はこのあたりの麻布で贈答品として珍重されたそうだ。
最後に高宮神社に寄る。
芭蕉の句碑があるとのことだったが見当たらず。どうやら門の前にあったらしい。残念だ。
参道にあった立派なお宅は馬場家住宅。庄屋の館である。
街道歩きはこのあたりで終了、高宮駅に向かう。
彦根まで近江鉄道に乗り、琵琶湖線に乗り換えて米原着が6時前。
お弁当やお酒、お茶を買って、6時57分発のひかりの乗り込む。
今回のお弁当は「湖北のおはなし」。
桜の葉がしかれた枝豆のおこわ、鴨のロースト、鶏の鍬焼き、こんにゃく、小芋、卵焼き、ねぎとあげのぬた、赤かぶら、やまごぼう、梅干し。デザートにはなぜか飴。
とてもおいしいお弁当だった。
うつらうつらしているうちに東京着。
乗り換えて帰宅は10時半前だった。
約43000歩。今回もまずまず歩きました。
雨でどうなるかと思いましたが、無事歩き終えてよかったです。
(完)
マップはこちらを使っています。
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