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2019/06/03

中山道六十九次歩き(第1回) 草津~武佐2

(1より続き)

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少し先に住蓮坊母公墓。
近江八幡の馬渕で処刑される住蓮房に一目会いたいと後を追った住蓮坊の母は、焔魔堂まで来たところで既に処刑された事を知り、悲嘆に暮れて尼ヶ池に身を投げて亡くなったという(住蓮房の事件については後述)。

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今宿一里塚。
滋賀県内に唯一現存する一里塚で、南側のみ残る。江戸から数えて128里目。
今宿は守山宿の加宿である。

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本像寺は朝鮮通信使が守山に宿泊したときに本陣として使われたという。

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木内石亭の墓。石亭は江戸時代の奇石蒐集家で石の長者と呼ばれた。
ということもあってか、境内にはたくさん石があった。

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樹下神社は大宝神社の分祀社。

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境内の常夜燈は1832年、伊勢屋佐七ら商人が商売繁盛を願って寄進したという。立派だ。

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吉川の土橋を渡り、守山宿に入ってきた。

ちょうど11時。まだお昼にはちょっと早いかと思い、先に中山宿交流館を見学しようと行ってみたのだが・・・
なんと!お休み。がーん。木曜日はやっているかと思っていたのだが、残念・・・

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トボトボと引き返し、かたたやで早いお昼にすることにした。
かつて東門院の門前に堅田屋という茶屋があり、旅籠として使われていたこともあったそう。

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外からみた建物も素敵なのだが、中も素敵!

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注文したのは鶏ひつまぶし。鶏肉は炙り焼きかたたきが選べるが、炙り焼きで。
まずはそのままで、次に薬味をつけて(柚子胡椒があう!)、最後に鶏がらスープをかけていただく。おいしかったです、ごちそうさま!

お店を出てお隣の東門院へ。

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仁王門。

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ご本尊は十一面観音だ。

不動明王座像は近江最大で重文とのことだったが、見逃してしまった・・・(不動堂の中にあったようだ)

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左から宝塔、五重塔、宝篋印塔。いずれも鎌倉時代のものだそうだ。

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先に進む。右に曲がる角に道標。
「左 錦織寺四十五町 こ乃者満ミち」「右 中山道 幷(ならびに) 美濃路」と書かれている。こ乃者満ミち(このはまみち)は琵琶湖の木浜港へ通じる道だそうだ。

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交流館の隣に本陣跡と井戸跡。

このあたりから、街並みが稲妻型屋敷割り(敷地が一戸ごとに段違いになっている)になっているとのことだが、今はよくわからない。防御のための街造りだったようなのだが。

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天満宮。元々東門院の境内にあったが、1546年焼失、明治になってこの地に再建されたそうだ。

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裏に源内塚。
源頼朝の平治の乱に敗れて東国に敗走する途中、源内兵衛真弘らが襲いかかったが、頼朝は髭切りと呼ばれる名刀で源内を一刀両断にしたという。
塚の前の丸い石は伺い石といって願いがかなうそうだ。やってみればよかった・・・

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うの家は、元首相の宇野宗佑氏の実家。今はレストランなどが入っているようだ。

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すぐ先に「すぐいしべ道」の道標。守山宿から東海道の石部宿まで至る道である。

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慈眼寺には帆柱観音なるものがあるそうだったが見られず。
門前の地蔵を撮影。

高札場跡、益須寺跡を通り過ぎ、野洲市に入った。

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野洲川を野洲川橋で渡る。
三上山がきれいに見える。
野洲川は朝鮮通信使などの場合をのぞき橋は架けられず、徒渡しだったそうだ。

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渡った先にたくさんの石仏や石塔、地蔵などが集められていた。

その前に十輪院があるが入ることができず。

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脇から芭蕉句碑を撮影。
「野洲川や 身は安からぬ さらしうす」という句だが、野洲晒(さらし)は麻布を白くさらす 「布晒」 を行っていて、冬に冷たい川に入って布をつくのは重労働だったということだ。

(3へ続く)

マップはこちらを使っています。

 

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