中山道六十九次歩き(第9回) 細久手宿~御嶽宿1
前週に続いての中山道歩き。
雨のち晴れという予報で、昼くらいまでは雨が残りそうだったので行くかどうか迷ったが、早めにやむことを祈って行くことにした。
いつもの通り、4時半起きで出発。
6時16分発ののぞみに乗り、7時51分名古屋着。
中央本線に乗り換え、瑞浪駅8時54分着。
前回の最後が御嵩駅だったわけだが、今までのように西から東へと歩いていくと、途中で鉄道もバスもないため帰るのが困難。
ということで今回に限り(いやまたそういうことがあるかも?)東から西へと向かうことにした。
あらかじめ9時10分にタクシーを予約していたのだが、9時5分にきたので乗り込む(タクシー会社に問い合わせをしたところ、3社のタクシー会社が乗り入れていて、だいたい2台くらいは駅で待っていることが多いが、いないこともあるので予約した方が確実とのことで、前日予約)。
約20分で細久手宿の細久手というバス停に到着。
降り立つと、雲はまだ厚かったものの雨はやんでいてほっとする。
津島神社、日吉第二小学校跡の碑のところから歩きスタートである。
すぐに道は左に折れ、さらに右に折れるが、このあたりから西方向を見て広重は細久手を描いているという。
高札場跡。向こうに見えるのは庚申堂だ。細久手でもっとも古い建物だそうだ(1802年再建)。
高札場のあたりがこの宿の東の入り口である。
久手(くて)とは低湿地の意味だ。
大湫宿から御嶽宿までは約19kmと長く、その間には琵琶峠、物見峠が控え難渋を極めたため、1813年細久手宿が新設されたのである。
紅葉がはじまっておりきれいだ。
境内には、如意輪観音や地蔵菩薩などが並んでいる。
石窟内の役行者。
少し歩くと左手に公民館があり、和宮様の行列が描かれている。
公民館の向かい側が、大黒屋。
元脇本陣で問屋も務めたという。
今の建物は1859年に建てられたものとのことで、うだつが上がり、2階が1階の半分しかない建物だ。
大井から御嶽まで宿はここしかないため、街道を歩く人にとっては貴重だろう。外国の人もたくさん泊まるのか、随所に英語表記があった。
本陣跡を通り過ぎた先、ちょっと入ると、和宮の井戸がある。
細久手で休憩した際に使用された井戸で、現在でも清水が湧き出ているそうだ。
道はじわじわと下っていく。
大塚。
昔、高貴な人が旅の途中で亡くなり埋葬されたことから王塚と言われ転じて大塚になったという。また、細久手が大火で焼け、和宮が隣の大湫宿に泊まることとなったが、道中が長くて用便したものを重箱に納めてこの大塚に埋めたことから「おくそ塚」と呼んで敬拝したとか・・・
少し進むと、斜面に穴があり、その中には馬頭観音があった。
穴観音である。
これが馬頭観音のはじまりで・・・この後たくさん見ることとなった。
道はさらに少しずつ下り、中山道くじ場跡と通り過ぎる。
旅人が泊まる宿をくじ引きで決めたとか、出稼ぎする人を決めたとか、人足たちが荷の扱いの順番をくじで決めたとかいろいろ説があるようだ。
一つ馬頭観音を飛ばしてしまい・・・
明治9年の馬頭観音。
この馬頭観音は用水池のところにある。
福島大将(長野県松本市出身の旅行家で明治25年情報収集のためにシベリア大陸を単騎横断して有名)が中山道を通行中に、この池で愛馬に水を飲ませたという。
平岩橋のところを右折、平岩を見に行く。
地名の由来となった大きな岩だ。
少し晴れ間がでてきた。
のどかな景色。
ここから道は徐々に上がっていく。
西の坂の入り口にきた。
むむ、また熊注意の看板が!
ここでカウベルをとりつける。
「旅人の上り下りや西の坂」と刻まれた道標。
向かいには瑞浪市内旧中山道の影碑。御嶽までの中山道の特徴や見所が書かれている。
折れた道標の先に秋葉坂三尊石窟があった。
三室に別れた石窟があって、左から風化してしまっている石仏、一面六臂の観音座像、三面六臂の馬頭観音だ。
(2へ続く)
マップはこちらを使っています。
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