中山道六十九次歩き(第10回) 細久手宿~大湫宿~大井宿3
(2より続き)
旧旅籠三浦屋。
本陣跡は、旧大湫小学校(昨年取り壊されたらしい)のところにあったそうだ。
脇には皇女和宮御歌碑がある。
「遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も たちうかりけり」
「思いきや 雲井の袂 ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは」
宗昌寺に寄る。
六地蔵尊と鐘楼。
ここからも大湫宿がよく見える。
さて、十三峠の入り口である。
ほどなく、山道に。
童子ヶ根碑。ヶ根というのは尾根筋を意味するとのこと。
山之神坂。
八丁坂(しゃれこ坂)には観音碑がある。
またまた石灰帯を通り過ぎて、尻冷やし地蔵があった。
清水で尻を冷やしているように見えることから呼ばれたものだそうだ。
阿波屋の茶屋跡のところに、観音石窟があり、なんと!三十三体もの馬頭観音がおさめられている。
曽根松坂の先に、なんとゴルフ場が!中山道はゴルフ場を横切るのである。
びあいと坂を上り、巡礼水。昔、旅の母娘の巡礼がここで病気になったが、念仏によって水が湧き出して命が助かったと伝えられている。今は水がないようだ。
馬頭様もいる。
たびたびゴルフ場のカート道を渡る。
と現れたのが権現山一里塚(90里)である。ここもまた左右現存している。
樫ノ木坂は石畳。87メートル続く。
三回目の石灰帯を通り過ぎ、吾郎坂、炭焼立場跡。
わき水を利用した立場があったという。
鞍骨坂を登って、権現坂を下る。
観音堂には弘法大師像があった。
灰くべ餅(ってどんな餅かな?)の出茶屋跡を通り過ぎ、西国四国秩父坂東供養塔があった。
その先に観音坂の馬頭様。
ずきんをかぶっているので馬は見えなかったが・・・
大久後の向茶屋跡(茶屋やら立場が多いな)を過ぎて、中山道の石碑。
ここが瑞浪市と恵那市の境だ。
下座切場跡の標柱。
中山道を行く役人を地元の代官が裃をつけて土下座して迎えた場所だそうだ。
茶屋坂の先にばばが茶屋跡。
ここはみちじろ峠で、道は下っていく(みちじろ坂)。
さらに西坂を下ると急に開ける。
深萱立場である。
当初の計画ではここから武並駅に出て帰ることにしていたのだが、案外いいペースで歩いてこられたので、若干ペースをあげて恵那まで歩くことにする。
山形屋(祖先は代官)跡、本陣跡(加納家)を通り過ぎる。
高札場(藤村高札)の復元。
お隣には庚申塔、馬頭観音。
うっかりよごれ茶屋(なんたる名前!)跡の標柱は通り過ぎてしまい、廿二夜塔と佐倉宗五郎大明神のある稲荷神社。
元禄の頃岩村藩で農民騒動が起きそうになったとき、竹折村庄屋田中与一郎が将軍に直訴して農民を救ったがその罪で斬首となった。その行動が佐倉藩の佐倉宗五郎に似ていることから祀られているという。
嘉永7年(1854)の三社灯籠。
(4へ続く)
マップはこちらを使っています。
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