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2020/02/04

日光街道歩き(第1回) 日本橋~千住宿3

(2より続き)

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少し進んで、山谷堀公園には猪牙舟の浮世絵が。
この舟は船首が細長くとがっている。てっきり、これが猪の牙に似ているからこの名前がつけられたのかと思っていたが、長吉という人が考案したので、それがなまってちょきぶねになったという説もあるそうだ。
山谷堀を通って吉原に遊びにこの舟に乗っていったそうだ。

今戸神社にも寄る。
源頼義・義家父子が、勅令によって奥州の夷賊安部貞任・宗任の討伐の折、京都の石清水八幡を勧請したのが始まりと云われている。

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御神木のイチョウは絵馬で囲われていた。

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沖田総司終焉之碑があった。
治療のかいなく、この地にで没したとのこと。
今戸焼き発祥之地の碑もある。

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招き猫発祥の地と言われ(豪徳寺じゃないの?)、猫があちこちに。

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リアル猫がいるの見えます?

街道に戻り、進んで左折。

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春慶院には高尾太夫の墓があった。
仙台藩主伊達綱宗の意に沿わなかったため、惨殺された吉原の遊女である。

続いて、楽しみにしていた東禅寺へ。

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江戸六地蔵の一つがあるのである。これで品川(東海道)、新宿御苑(甲州街道)に続いて3つめだ。

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こちらのご夫婦はどなた?と思ったら、木村屋総本店開業者の木村安兵衛と妻ブナだそうだ。

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駿馬塚。
義家が陸奥へ向かう際、此の地で愛馬 「青海原」 が絶命し、これを葬った所と伝えられる。

泪橋(小塚原刑場に引き立てられる罪人と身内の者がここで泪の別れをしたという)交差点を通り過ぎ、南千住駅高架を通り過ぎたところに、小塚原刑場跡がある。

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ここにあるのが首切地蔵。刑死者を弔うため造立された。
江戸六地蔵なみに大きなお地蔵さんだ。
まわりにはたくさんの石仏がある。

すぐ先に回向院。

 

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吉田松陰のお墓。

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腕の喜三郎、高橋お伝、鼠小僧の墓もある。

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杉田玄白の解体新書の扉絵がついた観臓記念碑。
刑場で解体を見て、解体新書を翻訳したという。

千住大橋の手前で大きく寄り道。

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円通寺である。
坂上田村麻呂が創建したお寺だが、観音様が派手派手しい(笑)。

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弾痕が残っている寛永寺の黒門。

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四八首塚、七重の塔、三代将軍家光鷹見の松。

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彰義隊士の墓。
1868年、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末敗走。横たわる隊士の遺体を見た和尚が、遺骸を火葬にして葬った。これが縁で寛永寺の黒門がここに移されたのだという。

街道に戻り、素戔嗚神社。

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松尾芭蕉の碑。「行く春や 鳥啼き 魚の目は泪」。

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銀杏のまわりにも絵馬がたくさんかけられていたが、こちらにもいっぱい!

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小塚の中の奇岩を 「瑞光石」 と言い、この小塚から 「小塚原」 の地名となったという。

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左から如意輪観音が刻まれた庚申塔、聖観音が刻まれた庚申塔、青金剛と刻まれた庚申塔。

誓願寺。
昔、家康が腰掛けたという榎があったという。

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今はないのかな?お庭は立派だったが。

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古い庚申塔。

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千住大橋を渡る。家康が隅田川に架けた最初の橋(現在の橋は昭和2年建設されたもの)。いよいよ千住宿だ。
 

(4へ続く)

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