日光街道歩き(第4回) 越ヶ谷宿~粕壁宿2
(1より続き)
街道に戻り少し先に進むと、建御雷神社があるが、境内に嘉永5(1852)年に築かれた富士塚があり、富士浅間宮大権現が祀られている。いや~こんな低い富士塚は始めてかも??
称名寺。
このあたりの名士である森泉家の墓がある(その後、立派な家があるなあと思った街道沿いの家がどうやら森泉家の屋敷だったようだ)。
その裏手にある林西寺に行こうとして遠回りしていまい・・・
しかし、そのおかげであじさいを見ることができた。
立派な山門。
参道の地蔵菩薩と庚申塔。
一石六地蔵がまたまたあった。こちらは六角石柱に彫られたもの。
本堂も立派だ。葵の御紋が目立つ。
本堂内陣。
実物の朱印状が残されている格式の高いお寺であり、子育て呑龍上人(貧しい家の子供を数多く養育した)として知られる呑龍上人の出家した寺である(残念ながら呑龍上人供養墓石は見損なってしまった)。
街道に戻り、そろそろお昼の時間。
ということで、イタリア厨房 ベルパエーゼに入る。
なんと、検温があった!(出先で初検温)
無事?6.3分だったので席に通され、イタリア気分ランチを頼む。
まずはスープに始まり、アマトリチャーナスパゲティとサラーメピザ(オリーブとサラミ)をシェアする。
これですでにおなかがいっぱいだったのだが、デザートの抹茶あんみつがまた大きなサイズ!いやはや満腹で、この先歩けるだろうかと思ったくらい(笑)。
たっぷり水分補給もして出発。
一日中曇りだと思っていたのに、日が照って暑い。
八里目の備後一里塚跡の碑。
なぜ備後というのかと言うと、かつてこのあたりは海で、見つかった観音像が備後からきたものだったから・・・という。
街道に近づいてきた川は大落古利根川。
元は利根川の本流だったのが、江戸初期に東遷事業により付けかえられ、排水路となった。大落とは農業排水を落とすという意味だそう。
奥に見える橋は昭和初期に架けられた時は有料の木の橋で賃とり橋と言われていたという。
善巧寺。
境内には親鸞聖人旅姿の像がある。
1キロほど進むと石碑が2つ。
ほとんど文字は読めないのだが、浅間大神碑と御嶽大神碑である。
大下稲荷神社を通り過ぎ、八坂神社到着。いよいよ粕壁宿である。
本陣1、脇本陣1、旅籠45の宿であるが、地名の由来は諸説ある。
元々平安時代に紀氏の一族が土着し春日部市を名乗ったということがあるが、江戸時代には糟壁、その後粕壁と書かれるようになったとのことだ。
境内には文政2(1819)年の猿田彦大神と文政11(1828)年の猿田彦大神があった。三猿が刻まれている。
(3へ続く)
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