日光街道歩き(第5回) 粕壁宿~杉戸宿~幸手宿4
(3より続き)

すぐ先にあるのが渡辺勘左衛門邸。質屋を営み、たくさんの小作人をかかえていたという。
国道に合流する手前あたりで杉戸宿を出た。

しばらく行くと、厳島神社が。赤くて目立ちますね。鳥居は両部鳥居だ。

文政3(1820)年の文字庚申塔もあった。
ちょっと寄り道。

街道からちょっと入ったところに稲荷神社があり、その隣に恭倹舎がある。
心学者、大島有隣が心学(石田梅岩を始めとする学問で神道、仏教、儒教を総合し、商人の営利活動を積極的に認め、勤勉と倹約を奨励した教育)を村民に教えた場所である。天明5(1785)年創建。
稲荷神社は戦国時代末期にはすでにあったとのこと。
街道に戻る。
山田うどんの前にあった茨島一里塚の説明板を通り過ぎ、いよいよ幸手市に入ってきた。

東武日光線の踏切渡って進む。

公民館の前にあったのが上高野村道路元標。
元は日光御成街道沿いの石井酒造前の橋の袂に建てられていたもので、平成2年の工事の際にこの場所に移転されたという。
日光街道と日光御成道の合流点の前のスーパーベルクへ。お目当ては、石井酒造のお酒、初緑を買うこと!(無事ゲット)

酒蔵自体はスーパーの裏手にあった。

ここで道は90度曲がり、その先に太子堂。明治11(1878)年ここを仮校舎として上高野小学校が開校した。

聖徳太子のお顔。
続いて、神宮寺。
源頼朝が藤原泰衡を討伐するため奥州へ向かう折、この地で鷹狩りをしたところ、鷹が逃げて薬師堂の大樹にとまったまま動かなくなり、薬師如来に祈ったところ戻ったといわれている。

たくさんの石造物。地蔵菩薩などの後には無縁仏も・・・
青淳童子とはいったい?
六地蔵。こちらの六地蔵は右から檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵のタイプだった。
志手橋を渡り、幸手宿に入ってきた。
幸手宿は本陣1、旅籠27。
日光御成道と日光道中が合流し、筑波道が分岐する地点の宿場町として、また権現堂河岸、関宿向河岸は回船問屋などが立ち並び賑わった宿であった。
城下町に併設された宿を除けば、千住宿、越ヶ谷宿に次ぐ日光街道3番目の規模であった。
当初はこのあたりで今回は歩きをやめようと思っていたのだが、まだ大丈夫そうということで宿の終わりまで歩くこととする。

神明神社。
たにしを描いた絵馬を奉納する目田螺(たにし)不動尊があるとのことだったがどれかわからず・・・

ここにも几号水準点があった。
旅館あさよろずは文政2(1819)年創業。板垣退助、伊藤博文が泊まったというが、今は新しい建物になっている。
その先のポケットパークには問屋場跡の解説があった。人足25人、馬25頭を常時義務づけられていたという。

本陣知久家跡は現在は鰻やさんになっている。
知久家は、本陣・問屋・名主の三役を兼ね、幸手宿で最も重要な役割を果たした家で、昔は1000坪もあったという。

まっすぐな街道を進み・・・

街道が右に折れる角に幸手一里塚の碑。12里目である。
その先の石太菓子店(文久年間創業)でおみやげに、銘菓塩がまを購入、電車の時間に間に合うよう、少し早足で駅へと向かう。
無事、目標の電車(日光線・スカイツリーライン直行)に乗ることができ、武蔵野線、中央線を乗り継ぎ、家到着は6時10分すぎ。

おみやげ3点。
約35500歩で、日光街道歩きでは一番歩きました。
またしばらく県またぎはできそうになく、この続きはいつになるやら・・・
(完)
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