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2020/07/20

甲州街道歩き(第3回) 柴崎~布田五ヶ宿~府中宿~矢川2

(1より続く)

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布多天神社の参道に面してあったお寺は常行院大正寺。
中には入らなかったが、山門が立派だった。

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街道を戻り、先に進むと小島の一里塚跡があった。
樹齢200年の榎は危険防止のため昭和40年頃伐採されたらしい。

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常演寺の門前には嘉永3(1850)年建立の常夜燈と地蔵の祠があった。

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蓮が咲いている。

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本堂は最近塗り替えたのかな?鮮やかな色だ。

源正寺は、太田道灌の弟、資忠の子孫、太田対馬守盛久が開基したお寺であるが、仁王門、社殿とも立て替え中のようだった。残念。

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参道にはいろいろと石仏や地蔵が。

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日本廻国供養塔は天明3(1783)年建立。意外といろいろなところでこうした供養塔は見る。

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西光寺。徳川家光より御朱印地を賜った御朱印寺だ。

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仁王門の脇には近藤勇の座像があった。
近藤勇、このあたり、上石原村の生まれだったのですね。

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この仁王門は、市内で唯一残る仁王門だそうだ。上には鐘楼もある。

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仁王様。

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ご本尊は木造大日如来座像。

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庚申塔などもあった。

中央自動車道の高架をくぐったところで右折、予定していた洋食やさん、クリスマス亭へ。
ちゃんと入り口で検温があったのだけれど、ワタクシは6度2分だったが、同行の母親が2回はかって2回とも34度とは!そんな低い人はじめてみました・・・

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さて、ここで頼んだのは和風オムライス。
ご飯と卵を混ぜてオムライスにしたもので、和風なのでケチャップはなし!
このハーブはなんだろう?しそ??
おもしろいオムライスだった。

最後に紅茶をいただいて出発する。まだ少しだけ雨が降っていた。

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街道に戻る黒塀の立派なお屋敷が。このあたりは上石原の宿だ。

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そして飛田給薬師堂には行人塚があった。
仙台藩御殿医であった松前意仙は諸国遍歴の末に貞享3(1686)年石造瑠璃光薬師如来立像を彫り上げ、墓穴を掘り、自ら入定し成仏したという。すごい人がいたものだ。
お堂の中にはその像があるとのことだったが見ることは出来なかった。

飛田給という地名は、古代、武蔵野を往来する旅人の飢えや病を救う施設「非田給」がこの地にあったことに由来するそうである。

ここを左に行くと江戸初期の甲州街道だが、右がその後の甲州街道である。

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嘉永5(1852)年建立の常夜燈。秋葉大権現、稲荷大明神、諏訪大明神と彫られている。甲州街道は秋葉の名前をよく見かける。

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その先に観音院。
享保3(1718)年建立の庚申塔、宝永7(1710)年建立の地蔵尊、文政4(1821)年建立の馬頭観音などが並ぶ。

お隣の神明社の入り口には下染屋の解説板があったが、調布(てつくりぬの)を染めたところだそうである。

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ここの常夜燈も秋葉山。嘉永6(1853)年建立。

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飛田給を過ぎて府中市に入っており、マンホール発見!
市の鳥ヒバリである。

西武多摩川線の線路を越える。すぐそこに白糸台駅が見えていた。

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庚申塔もあった。だいぶ風化してしまっている。

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別のマンホール発見。市の木ケヤキである。

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不動前交差点のところにある石仏は、交安観世音菩薩像。
交通安全を願っての観音様なんですかね。

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染屋不動尊。
上染屋の解説板がある。下染屋37戸だったのに対し、こちらは53戸の集落だったとのこと。元々は一つの集落だったのが別れたのですね。

ご本尊の金剛阿弥陀如来立像は、新田義貞の鎌倉攻めの際の陣中の守護仏だったそうだが、見ることはできない。

少し進んで、江戸初期の甲州街道の方へ。品川道との表示があったが、東海道の品川に通じていたのですね。

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こちらに常久の一里塚跡があるのである。7里目。
ちなみに常久という村の名は名主の名に由来するということだ。

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街道に戻り、常久八幡神社を通り過ぎたことろでまたまたマンホール発見。カラーのもので、中にヒバリの親子、外側に市の花の梅。

やがて京王線東府中駅の付近で江戸時代初期の甲州街道と合流、八幡宿の説明板があった。府中市のは石でできた説明板だ。
元々八幡宿は国府八幡宮の周囲の部落であったが、甲州街道が開設されると街道筋に移転したのだそうだ。

ちょっと寄り道。
八幡神社へ。武蔵国府八幡宮で、聖武天皇の時代、一国一社の八幡宮として創建されたもの。

うっそうとした森の中を入っていったところにあり、蚊に刺されそうになる。裏から入ってしまったのだった・・・

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殿は小さい。

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二の鳥居の向こうに木造の門が。

(3へ続く)

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