日光街道歩き(第6回) 幸手宿~栗橋宿~中田宿~古河宿2
(1より続き)
堤を歩き終え、街道に復帰、中川を行幸橋で渡る。
国道とはここで別れ、旧道に入っていく。
と、突如、Y字路に現れた道標。安永4年(1775)建立。
道標には、「東川つま道 まいはやし道」、「右つくば道」、「左日光道」 と刻まれている。川つまは現在の五霞村川妻、まいはやしは総和村前林のことである。
その先の古い感じのお店は吉羽屋酒店。
田んぼの中を進む。もうほとんど収穫が終わっているようだ。
向こうに見えるのは東武日光線である。
雷電社湯殿社。外国府間村の鎮守で300年ほど前からあったらしいが、平成13年不審火により全焼、再建されている。
境内にはいろいろな石造物が。
左から、延享4年(1747)の一面六臂の青面金剛の庚申塔、弘化2年(1845)の如意輪観音を刻んだ十九夜塔、安永8年(1779)の西国秩父坂東供養塔。
前回、二六夜塔を見たが、一九夜塔ははじめて。
月待塔は十三夜から二十六夜塔まであるらしいが、一九夜塔は山形、福島、茨城、群馬、埼玉、千葉などにあるとのこと。如意輪観音が刻まれているのが一般的なようだ(この日はこの後も見ることとなる)。
久喜市に入る。
少し進んで、真光寺。
墓地の片隅にあったのが、またまた文政8年(1873)建立の如意輪観音像一九夜供養塔、如意輪観音、享保7年(1722)の青面金剛庚申塔。
そしてちょうどお寺の前にあるのが、小右衛門一里塚。13里目。
塚はお寺側が約2メートル、道路側が60センチほど。
塚の上には権現堂川から移設した弁財天堂が再建されている。
蔵を残した立派なお屋敷を通りすぎたところで、雨がポツポツと降ってきた。が、まあたいしたことはなかったので傘をささずに歩く。
ここでそのまま街道を行かず、権現堂川の歩道を歩くことにした。
下流の方にキューピーの工場が見える。
船も見えた。
川の色は深緑だ。
ツクツクボウシがまだまだ鳴いている。鳴き始めが遅い分、最後まで鳴いているのがツクツクボウシだ。
雨はあっという間にやみ、少し蒸してきて暑い(その後予想に反して晴れて、さらに暑くなった)。
再び国道4号線の南西側に渡り、旧道へ。
川通神社である。
裏から入ってしまったのだが、青面金剛庚申塔、一石六地蔵などが並んでいた。
権現堂堤にはまだ咲いていなかった赤い曼珠沙華も開花。
玉垣に囲まれた本殿の手前右には富士仙元宮、さらに手前には文化11年(1814)の常夜燈がある。
この日は蚊が多く、それまでも刺されてはいたのだけれど、ここでもなんと6つも刺されるという・・・
少し先にあったのが会津見送稲荷。
会津藩の武士が藩主江戸参向に先立ち、先遣隊として江戸へ書面を届けるため、この街道を栗橋宿下河原まで来たところ、地水のため通行できず、街道が何処か分からず大変困っていると、突然白髪の老人が現れて道案内をしてくれた。お陰で武士は無事江戸へ着き、大事な役目を果たすことができた。その後、この老人は狐の化身と分かり稲荷様として祀ったという。
狐がいっぱい・・・
ようやく久喜市・・・栗橋のマンホール発見。
八坂神社の大祭「天王様」の大御輿が描かれている。関東三大神輿の一つなんですって!
県道60号線に合流、栗橋宿に入ってきた。
だいぶ行ってしまってから焙烙地蔵を通り過ぎてしまったことに気づき、慌てて戻る。
関所を通らないで渡った者、または渡ろうと企て事前に発見された者は、関所破りの重罪人として火炙りの刑に処せられ、こうした人たちを憐れんで供養の為に地蔵を祀ったという。
中には地蔵とともに奉納された焙烙がたくさんあった。
顕正寺に寄る。
池田鴨之介の墓がある。
慶長年間(1596-1614)に下総国栗橋村より村民を引き連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾した人物だ。
くりはし八福神の毘沙門天と三面六臂の馬頭観世音もあった。
(3へ続く)
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