日光街道歩き(第8回) 間々田宿~小山宿4
(3より続き)
須賀神社到着。
天慶3年(940)藤原秀郷公が京都の八坂神社を勧請した。
石田三成との決戦を決意した家康はここで戦勝を祈願したそうである。
木曽檜造りの随神門の向こうに拝殿が見える。
随神門の右は櫛磐牖命(くしいわまどのみこと)。
左は豊磐牖命(とよいわまどのみこと)。
神楽殿には酒樽が・・・
そうか!鳳凰美田って小山のお酒だったのね・・・
七ツ石と右が小山朝政之碑、左が小山義政之碑。
七ツ石はもともと小山城内にあった七ッの庭石が、落城したことによって結城の城内に接収され、夜中になると哀れに泣いたというもの。
小山朝政は初代小山城主政光の子で、頼朝の信頼厚い有力御家人だった人物、義政は朝政の孫で、足利氏満の制止を無視して宇都宮基綱と合戦し、最終的に追い詰められて自害した人物である。
神社を出たところで、心配していた雨が思ったより早く降りだし、ザックカバーをかけ、傘をさす(その後もずっと降っていたけれど、雨量は多くなかったのでよかった)。
妙建寺。
本堂の格天井には百人一首が描かれているとのことだが、やはり見られず・・・
ちっちゃなお地蔵様がかわいい!
宮本愛宕神社のケヤキはとても大きい。
康歴元年(1379)。小山義政が山城国愛宕郡から勧請した際に植えられたケヤキという。
大正2年の火事で樹冠が類焼し上部が欠けてしまっている。
市役所前にあるのが小山評定跡碑。
家康が上杉景勝を討つため小山に到着した時に、石田三成挙兵の知らせをうけ、急遽軍議(小山評定)が開かれ、三成打倒が決まり、これが関ヶ原の戦いへとつながるのである。
小山御殿広場。
小山御殿は徳川将軍家が日光社参の際の休憩・宿泊所として作られた。この南が小山評定が開かれた地と言われている。
城山公園へ向かう。
思川をのぞむ高台にある公園で、祇園城の跡地である。
城守りの神として祇園社をまつったことからこの名で呼ばれるようになった。
小山氏の本拠地で、小山氏が追放されたあとに北条氏照により拡張されたものの、北条氏滅亡後は、江戸幕府の重臣本多正純が城主となった。しかし正純も宇都宮に転封となり、廃城となっている。
前週も見た思川。
二の丸跡。
堀が残っている。
今頃桜だろうか?
Googleマップに従い、天翁院に向かうが、本祇園曲輪跡に入り込んでしまい、結局いけず・・・しかし、偶然たどり着いた(笑)
見逃してしまったが、小山氏の墓もある菩提寺である。小山氏初代の小山政光が北山に祇園山万年寺として創建したお寺。
鐘楼。
天保4年(1833)の如意輪観音が刻まれた十九夜塔。
この日も十九夜塔をたくさん見た気がする・・・
そして、最後は表の門から出るという(笑)
天翁院に続いて、裏から入ってしまった興法寺。
小山氏代々の祈願所として城内にあったが、その後この地に移転している。
左から、大乗妙典千部供養塔、二十三夜塔、弘化4年(1847)の馬頭観音、寛政9年(1797)の十九夜塔、寛延元年(1748)の庚申塔、享保10年(1725)の一面六臂の青面金剛の庚申塔、庚申塔(三猿あり)。
参道には桜が植えられていて春はきれいでしょうね。
さて、蛸屋総本店(午前中に最中を買ったお店の本店・・・元禄11年(1698)創業とか)でおみやげにお菓子を買って帰ろう!
と思ったらこの日は臨時休業・・・
うなだれつつ、愛宕神社へ。
貞応2年(1223)小山城主小山朝政が門守護の鎮守として山城国(京都)の愛宕の神を勧請した。狛犬は天明5年(1785)のもので市内最古とのこと。
最後に寄ったお寺は光照寺。
境内には慶応4年(1868)、戊辰戦争の小山での戦いで戦死した笠間藩士海老原清右衛門の墓や、一遍上人の像があった。
旧八百忠の商家と石蔵を利用した、小山市まちの駅思季彩館をちらりとのぞいたあと、小山駅へと向かう。
4時半すぎの東北本線に乗り、浦和、南浦和、西国分寺で乗り換え、国分寺着は6時20分過ぎ。
地元の居酒屋さんで打ち上げ!
今回は35600歩と、前々回、前回と比べると少ないけれど、それなりに歩きました。寄り道が結構あったからですね。
おみやげの若盛。
(完)
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