五日市街道歩き(第1回) 新高円寺~小平桜橋3
(2より続き)
少し歩いたところにあるのが武蔵野八幡宮。
なかなか立派だ。
延暦8年(789)坂上田村麻呂が宇佐八幡大神の分霊を祀り水道橋附近に創建したが、明暦の大火後に水道橋附近の住民が移住して吉祥寺村を開村した際に村の鎮守として、寛文年間(1661-72)に遷座したとのことだ。
入り口に「神田御上水 井之頭辨財天 道標」がある。草がのびちゃって下の方がちょっと見えなくなっているけれど。
横には「天明5年(1785)これよりみち」と刻まれている。
しばらく進むとケヤキ並木が見えてきた。
奥にあるのは成蹊大学。
成蹊学園の武蔵野市への移転に先駆けて、大正13年5月頃同一樹齢の若木百数十本を、玉川、用賀、狛江などから運んで植えたのだそうだ。
その先に三峰神社。
狛犬ではなく、狛狼。ちょっと恐い顔ですね。
武蔵野文化会館前で思いがけない出会いが!
フォロワーさんとお会いし、差し入れをいただいてしまった。
ほんの少しの時間でしたがお話できてうれしかったです。ありがとうございました!
先を進む。
西窪稲荷神社。
神楽殿に奉納されている絵馬35枚は、市の有形民俗文化財に指定されているそうだが、残念ながら見られない。
お隣の源正寺。
本堂前には創建当時からの樹齢300年のイヌツゲがあるが、だいぶ傷んでいる様子。
常夜燈は寛永6年(1629)のもの。
左から、享保7年(1722)、文政2年(1819)、嘉永3年(1850)の地蔵菩薩。
延命寺。
多摩四国88所2番で、武蔵野吉祥七福神の毘沙門天・寿老人が置かれている。
なぜか二宮金次郎が。
寿老人。鹿もいる。
毘沙門天。
一番左が元禄9年(1696)の青面金剛の庚申塔、右から3番目が元禄2年(1689)の地蔵菩薩。
250K爆弾の破片もあった。
このお寺の北側に軍需工場があり、軍用機のエンジンを生産していた。戦争末期の空襲でお寺の境内にも爆弾が落ちて被害を受け、周辺地区では多くの犠牲者が出たとのことだ。
お隣に関前八幡神社がある。
石の鳥居の奥に木造の両部鳥居がある。
明治百年記念樹の楠木が大きい。
うっかりちょっとばかし行き過ぎてしまったが、その先にあるのが御門訴事件記念碑。
明治3年(1870)、その前年に品川県から布達された社倉制度(飢饉に備えるための貯穀制度)に反対した旧関前村新田を含む武蔵野12か新田の農民たちが品川県庁へ門訴したが、名主井口忠左衛門は非業の死をとげている。
この先で武蔵野大学にぶつかり、街道は左に折れるのだが、その前に石橋供養塔と庚申塔を見る。
この地には古くから橋が架けられていたが、関前村村民の総意に基づき、近隣諸村の助成を受けて天保12年(1841)に石橋に架け替えられ、その完成を記念して石橋供養塔が建てられたそうである。
大学の門の左には文字庚申塔が。
天明3年、浅間山の大噴火・洪水・冷害が重なったため、村の入口から飢饉が侵入しないように庚申の強い霊力に祈願して建てられたもの。
ちゃんと三猿もいますね。
ここからはしばらく千川上水脇の道を歩いていく。
緑があり、水辺なので涼しい。ただし蚊がいる・・・
(4へ続く)
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