姫街道歩き(第4回) 気賀宿~自動車学校前駅3
(2より続き)
松並木を進む。
権七商店・・・ごんひちというお店があった。
三方原追分からずっとうっそうとした松並木が続いていて、寂しいところだった。約100年以上も続いた権七店の店先には山桃の木があって、そこに馬方は牛馬をつないで休憩した。店では、駄菓子、だんご、お酒などを売っていた。
三方原救貧院跡の石柱。
明治10年、気賀林(豪商)が困窮した士族の救済施設を設立。
間口八間、奥行き三間半の木造平屋建て瓦葺きの建物で、最大四家族ほどを収容、米麦、味噌、醤油、薪炭等を支給し救済したという。
ちょっと寄り道。
本乗寺に寄る。
ここには精鎮塚がある。
三方原の戦いの戦死者をまつるために建てられたといわれているもので、昔は権七商店のそばにあったが大正期にこの寺に移されたのだそうだ。慰霊のため、盆と12月25日にそば供養が行われるとのこと。
家康関係の場所には、家康公ゆかりの地というのぼり幟があるんですね。盛り上げようと頑張ってるな。
続いて三方原神社へ。裏から入る。
この神社は、旧浜松城内で祀られていた東照宮が移されたもの。御祭神は家康だが、秀忠、家光も合祀されている。
不動堂。
不動明王は道標を兼ねている。「右はま松道 左いけ田道」と彫られている。
扶持米倉庫跡。この地に倉庫を建てて扶持米を貯蔵、士族たちに支給した。
四勇士の碑。
昭和12年、4人乗りの重爆撃機がエンジン故障で墜落したが、搭乗員が人家の無い場所を選んで墜落したのを見た住民が慰霊のため建立した。三方原には陸軍の飛行場があったのだ。
第18代徳川恒孝公お手植えの松。
三方原開拓の碑。
かつての製茶場が経営不振で明治35年閉鎖。国のものとなると森林とされてしまうと心配した地元名士が購入し住民に分割。開拓地を荒廃から守った7名の功績をたたえて碑が作られた。
三方原小学校発祥の地碑。
大正2年の石鳥居の向こうに見える拝殿。
出たところには気賀林(三富翁)の碑があった。
明治2年、三方原開拓係となり、士族800戸の三方原入植の受入事業を完遂、明治6年からは茶園の開拓に専念、百里園長として百ヘクタールの茶園の育成と製茶工場の経営を成功させた。その後、三方原救貧院の創設をはじめ、福祉・教育・社寺への寄付等、地域行政に大きく貢献した人物ということだ。
この神社、碑が多いですね。
さて街道に戻り、松並木を進む。
追分も近づいてきて、そろそろ松並木も終わりだ。
手前が姫街道で一番太い松。
清田定春の姫様行列が描かれた建物。手前には姫まつ灯籠があった。
元追分の交差点にきた。真ん中に「奥山半僧坊大権現へ三里廿九丁」の里程標と慶応4年(1868)の道標があって、「右 みやこだ 中 かなさし 左 きが」と彫られている。
三方原追分である。
我々は見附の方面へと行く。
(4へ続く)
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