奥州街道歩き第4回(大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿1)
2週間ぶりの奥州街道歩き。
梅雨入りして天気が安定せず、ギリギリまで行くかどうか迷っていた。
雨は降るようだけれど、本降りになるのは夕方以降という前日の予報を信じて決行したのだが・・・
いやはや早くから強い雨が降り続け、大変な街道歩きに。ただし、涼しかったのはよかった・・・
いつもの電車に乗って出かけ、大宮から6時45分発のやまびこに乗り、那須塩原到着7時31分。
7時55分の市営バスに乗り、遅れることなく定刻8時16分に末広2丁目バス停に到着。
もう雨が降り始めていてザックカバーをかけて歩き始める。
前回、見学した薬師堂を横目にみつつ、旧奥州道中大田原宿下町碑、そして本陣・問屋・高札場跡の案内板を通り過ぎる。
本陣は印南家が勤め、問屋を兼ねていた。敷地980坪、建坪381坪と奥州道中最大の規模。人足25人、馬25疋が置かれており、本陣脇には高札場が置かれていたとのことだ。
大田原信金の前に幸矢の与一像がある。
与一は幼い頃から弓矢が達者だったらしい。
少し進んだ交差点のところにポケットパークがあり、そこに金燈籠がある。文政2年(1819)に鋳造されたが、戦時中に供出され、現在のものは昭和54年鋳造のもの。
台座は昔のものでこちらには「江戸」。
反対側には「白川」。水準点マークもあった。
角を曲がってさらに曲がると枡形がある。
大田原神社の鳥居。大同2年(807)の創建。
このあとの行程を考え、泣く泣く訪れるのをあきらめる。
大久保木戸跡の石柱。ここが大田原宿の北口である。
大田原城跡に行ってみる。
本丸まで行ってみる時間はなかったが、北曲輪の土塁を撮影した。
ここで雨が強くなってきたのでゴアテックスのズボンを履く。
蛇尾川(さびかわ)を蛇尾橋で渡る。
蛇尾(さび)という名前は、アイヌ語の 「サッ・ピ・ナイ」 (渇いた小石河原の川)が由来という説と、栃木県の方言 「サビ」 =斎日(さび)が由来という説があるそうだ。
さびとは読めないですね。
先を進む。次第に雨脚が強まってきた。
中田原工業団地東公園にはたくさんの彫刻がある。
これは「希望」というタイトル。
平家瀬尾家居宅館跡には曽良の句碑があるというので、門内を見たらあった・・・と思ったら、そこにお住まいの方が芭蕉の句碑だと。 「野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす はせを」。
で、結局、曽良の句碑を見つけられなかったという・・・
与一みそのお店。
大田原はやはり与一なんですね。
中田原の一里塚到着。
南側は宅地建設のため取り壊され、北側は半分切り取られた形で残っていたが、道路拡幅のため平成12年に約1.5m後方に移設されたとのこと。38里目。
十王堂跡到着。
六地蔵幢。
地蔵堂の中にはかわいらしいお地蔵様と十王尊。
十王堂跡の斜め前には道標があった。棚倉街道への分岐である。
寛永6年(1629)、「紫衣事件」によって江戸幕府の怒りを買った僧、沢庵宗彭と玉室宗珀が流人として流刑の地、羽州上山と奥州棚倉へ護送される途中、この追分口で別れたという。沢庵漬けの考案者と言われるけれど、果たして本当なのかしらん。
市野沢交差点を過ぎた先に大きな高野槙がある。
目通り3.1m、樹高17m、推定樹齢400年。
少し先に如意輪観音があったが、ここは首切り山といって、刑場があった場所という。
弘法大師句碑。「蓑に沿う 市野沢辺の ほたる哉」。
弘法大師が、この地を通った際に詠んだものだと伝えられているが、実際は江戸時代に詠まれたものとか???
(2へ続く)
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