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2023/06/14

奥州街道歩き第3回(喜連川宿~佐久山宿~大田原宿4)

(3より続き)

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お寺の斜めむかいには国井宅の赤マツが。
目通り周囲1.7m、樹高7m、推定樹齢約200年。

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蒲蘆碑(ほろのひ)なるものがあった。
代官山口鉄五郎の善政を讃えたもの。
この地の者は蜃気楼のことをホロと呼んでいて、中国の書 「中庸」 の中にある一文、「政治は蒲や慮のようなもの」から、山口鉄五郎の善政を蜃気楼の蒲慮に結び付けたものなのだそうだ。

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湯殿神社。建久6年(1195)那須与一が勧請したもの。

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文久元年(1861)の湯殿山と刻まれた石燈籠がある。
このあたりから湯殿山に詣でたのだろうか。

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護法寺。

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山門脇には文政9年(1826)の南無妙法蓮華経題目碑がある。

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本堂の屋根は緑色で、なかなかに目立つ。

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先に進み、ミニストップを通り過ぎた先に浅野八幡神社。
このあたりは、天保12年(1841)以来、加勢友助等によって開墾され、八幡神社はその鎮守として安政2年(1855)に勧請されたもの。

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入口には加勢友助翁碑があった。

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次第に家が多くなり、神明町の交差点手前に大田原宿新田木戸跡の碑がある。ここが大田原宿の江戸口。
元々那須氏の所領であったが、室町時代後期、那須家の家臣、大田原資清が大田原城を築城し、城下町を形成する。これが大田原の起源とされている。江戸時代は、大田原氏の城下町として栄え、多くの街道が集まる宿場町として賑わったという。本陣2、脇本陣1、旅籠42。

街道は交差点を右折するが、バス停は直進。
しかし、4時1分のバスにはまだちょっと時間があるので、薬師堂だけ見学することとする。

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大田原城四方固めの一つの薬師如来が祀られる小堂を寛政5年(1793)に9代藩主大田原庸清が再建。

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薬師堂。
彫刻が見事だ。

1422

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中には仁王様(金剛力士像)が。

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七重塔。貞享元年(1684)の建立。

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仏舎利塔。元禄7年(1694)の建立。

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一石二地蔵など。

これにて終了。

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末広2丁目バスより、大田原市市営バスに乗って那須塩原駅まで(200円!)。
それほど遅れず、4時40分前に駅到着。

元々ゆっくりめの7時3分の新幹線を予約していたのだが、5時3分のに変更。
駅弁を買ったものの、3列の真ん中席では落ち着いて食べられないので帰宅して食べることに。

帰宅は7時前。

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食べたお弁当はなぜか?米沢のお弁当やさんのあなごめしだったが、あなごがとても柔らかくおいしかった!

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おみやげは、佐久山宿の勘兵衛饅頭と、那須塩原駅で買った(街道とは関係ないけれど)特別純米酒・とちまるくん。

42890歩。
次回は、芦野まで一気に行けますかどうか・・・

(完)

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