« 佐屋街道歩き2 | トップページ | 佐屋街道歩き4 »

2023/10/31

佐屋街道歩き3

(2より続き)

街道に戻る。
直進して川に突き当たったところが万場の渡し跡だが、今はわたれないので、迂回すべく右折。

1_20231031005001

直進して万場大橋の高架をくぐると七所社がある。

2_20231031005001

このあたりの多くの神社にある蕃塀がここにも。

3_20231031005001

本殿。

4_20231031005001
境内には3つの園墳があり、こちらは一号墳。

5_20231031005001

二号墳。
三号墳は日露戦争の戦勝記念碑のあったところだったらしいのだが、そこだとは思わず写真を撮らなかった・・・

6_20231031005001

日本武尊の腰掛け石。
日本武尊が伊吹山の荒ぶる神の退治に向かう際、庄内川の舟渡しを待つ間に腰掛けたのだという。
日本武尊腰掛岩と三つの塚の二字の組み合わせが岩塚という地名の由来なのだそうだ。

この神社にはきねこさ祭という尾張三大奇祭の一つであるお祭りがあるそう。
厄年の男衆十二人が一本の笹竹を持って庄内川に入り、川の中程で笹竹を立て、一人が登り、竹の倒れた方向で農作物の吉凶を占うお祭りとのこと。

7_20231031005001

このタイルがそうですね。

8_20231031005001

街道に戻り、階段を上がって庄内川を万場大橋で渡る。

9_20231031005001

渡りきって土手を進むと下に秋葉社が見える。
天保十三年(1842)建立の秋葉大権現常夜燈もある。

10_20231031005001

道は右に曲がっていて、万場宿に入った。
万場宿は寛永十一年(1634の宿開設。岩塚宿と合宿で問屋業務は月のうち上半月を勤めた。本陣一、問屋一、旅籠十軒。

11_20231031005101

万場の渡しのタイル。

12_20231031005101

旧家があるが、敷地は庄内川の氾濫に備え、石積みで嵩上げされていた。

13_20231031005101

覚王院。本尊はちちの観音と呼ばれる鎌倉時代造立の千手観音立像だそう。
境内には乳の木(実の中が母乳に似ているとか)があって年2回実をつけるそうだが、どの木かわからないかった。

14_20231031005101

お隣は國玉神社・八劔社相殿。

道は右に曲がるが(高札場があったところ)、光圓寺が見えてきた。

15_20231031005201

大きな石灯籠!

16_20231031005101

山門には臥龍山の額がかかっているが、この門は織田信長と斎藤道三が会見した尾張國中島郡冨田村(現在の愛知県一宮市)の聖徳寺から移築したもの。

17_20231031005101

本堂と三重塔。塔は比較的新しいようだ。

18_20231031005101

弥次さん喜多さんのタイル。

19_20231031005101

新川を砂子橋で渡る。
庄内川の水害を防ぐため、放水路として天明七年(1787)尾張藩が四十万両を投じて新川を開削した。橋は天明七年(1787)に架けられている。

20_20231031005101

十二所神社社標と鳥居。今度は十二か・・・

いつの間にか大治町に入っていた。

21_20231031005301

大治町のマンホールは赤しそと明眼院の門。
日本初の眼科治療院だった明眼院も行ってみたかったが、街道からかなり離れているようだったのでパスすることにした。

(4へ続く)

マップはこちらを使用しました

« 佐屋街道歩き2 | トップページ | 佐屋街道歩き4 »

街道歩き」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 佐屋街道歩き2 | トップページ | 佐屋街道歩き4 »

twitter

google


  • Google

    WWW
    ブログ内

amzon