佐屋街道歩き3
(2より続き)
街道に戻る。
直進して川に突き当たったところが万場の渡し跡だが、今はわたれないので、迂回すべく右折。
直進して万場大橋の高架をくぐると七所社がある。
このあたりの多くの神社にある蕃塀がここにも。
本殿。
境内には3つの園墳があり、こちらは一号墳。
二号墳。
三号墳は日露戦争の戦勝記念碑のあったところだったらしいのだが、そこだとは思わず写真を撮らなかった・・・
日本武尊の腰掛け石。
日本武尊が伊吹山の荒ぶる神の退治に向かう際、庄内川の舟渡しを待つ間に腰掛けたのだという。
日本武尊腰掛岩と三つの塚の二字の組み合わせが岩塚という地名の由来なのだそうだ。
この神社にはきねこさ祭という尾張三大奇祭の一つであるお祭りがあるそう。
厄年の男衆十二人が一本の笹竹を持って庄内川に入り、川の中程で笹竹を立て、一人が登り、竹の倒れた方向で農作物の吉凶を占うお祭りとのこと。
このタイルがそうですね。
街道に戻り、階段を上がって庄内川を万場大橋で渡る。
渡りきって土手を進むと下に秋葉社が見える。
天保十三年(1842)建立の秋葉大権現常夜燈もある。
道は右に曲がっていて、万場宿に入った。
万場宿は寛永十一年(1634の宿開設。岩塚宿と合宿で問屋業務は月のうち上半月を勤めた。本陣一、問屋一、旅籠十軒。
万場の渡しのタイル。
旧家があるが、敷地は庄内川の氾濫に備え、石積みで嵩上げされていた。
覚王院。本尊はちちの観音と呼ばれる鎌倉時代造立の千手観音立像だそう。
境内には乳の木(実の中が母乳に似ているとか)があって年2回実をつけるそうだが、どの木かわからないかった。
お隣は國玉神社・八劔社相殿。
道は右に曲がるが(高札場があったところ)、光圓寺が見えてきた。
大きな石灯籠!
山門には臥龍山の額がかかっているが、この門は織田信長と斎藤道三が会見した尾張國中島郡冨田村(現在の愛知県一宮市)の聖徳寺から移築したもの。
本堂と三重塔。塔は比較的新しいようだ。
弥次さん喜多さんのタイル。
新川を砂子橋で渡る。
庄内川の水害を防ぐため、放水路として天明七年(1787)尾張藩が四十万両を投じて新川を開削した。橋は天明七年(1787)に架けられている。
十二所神社社標と鳥居。今度は十二か・・・
いつの間にか大治町に入っていた。
大治町のマンホールは赤しそと明眼院の門。
日本初の眼科治療院だった明眼院も行ってみたかったが、街道からかなり離れているようだったのでパスすることにした。
(4へ続く)
マップはこちらを使用しました
« 佐屋街道歩き2 | トップページ | 佐屋街道歩き4 »
「街道歩き」カテゴリの記事
- 中山道六十九次歩き(第34回) 北浦和~浦和宿~蕨宿~板橋宿~日本橋6(2024.05.04)
- 中山道六十九次歩き(第34回) 北浦和~浦和宿~蕨宿~板橋宿~日本橋5(2024.05.03)
- 中山道六十九次歩き(第34回) 北浦和~浦和宿~蕨宿~板橋宿~日本橋4(2024.05.02)
- 中山道六十九次歩き(第34回) 北浦和~浦和宿~蕨宿~板橋宿~日本橋3(2024.05.01)
- 中山道六十九次歩き(第34回) 北浦和~浦和宿~蕨宿~板橋宿~日本橋2(2024.04.29)
コメント