奥州街道歩き第5回(芦野宿~白坂宿~白河宿~女石追分4)
(3より続き)
またまた旧道に入り損ね、国道合流地点に明神の地蔵様。
享保14年(1729)の地蔵菩薩坐像、延享3年(1746)の如意輪観音だ。
境の明神到着。
国境をはさんで二つの神社がある。
那須町側は玉津島神社。天喜元年(1053)紀州和歌浦の玉津島神社から勧請した峠神。
境の明神大日如来像。
本殿。
そしてついに福島県!
白河市側の境の明神は住吉神社。
奉納算額がある。
拝殿。
芭蕉句碑。「風流の はしめや奥の 田うへ唄」
神社の向かいは白河二所之関跡。
世の白河関跡で、ここにはお休所南部部屋七兵衛があった。
峠を越えて少し下ると衣がえの清水がある。
かつて弘法大師がこの清水で身を清め、衣替えをしたという。弘法大師が水を求めたが日照りで井戸の水がなかったため、大師が持っていた杖をさすと清水が湧いたとも伝えられる。
白坂宿馬洗場跡を通り過ぎ、進むと石仏石塔群がある。
慶応4年(1868)の南無妙法蓮華経題目碑、寛政2年(1790)の大乗妙典日本廻国供養塔、文化10年(1813)の馬頭観音、慶応4年(1868)の大勢至菩薩など。
六地蔵石幢もあった。
白坂宿に入ってきた。
秀吉が伊達政宗に小田原から会津の街道整備を命じた際に、芦野と白河間が長すぎるということで宿駅となったのが白坂宿の起こりで、本陣1、脇本陣1、旅籠27。
うっかり通り過ぎそうになったところで、おじさんがこれを撮影していけと指さしてくれたのが、大垣藩士戦死之跡碑。
戊辰戦役で胸に被弾して戦死した大垣藩士酒井元之丞重寛の碑だ。
この宿では屋号を刻んだ石が各家に置かれている。
脇本陣跡(岩井屋戸上家)。
ここの稲はまだ刈り取られていなかった。
お隣に本陣跡(河内屋白坂家)。
(5へ続く)
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