奥州街道歩き第5回(芦野宿~白坂宿~白河宿~女石追分6)
(5より続き)
緩やかな坂道を上がっていくとため池が二つあり、ここからまた旧道へ。
先祖代々供養と刻まれた明治32年の馬頭観世音。
白河モールを過ぎて(ここを左折すると新白河駅へと至る)、道が直角に折れるところに戊辰の役古戦場跡がある。戊辰の役の激戦地だった。ここが白河宿の江戸口。
白河宿は白河藩の城下町として発展した宿で、本陣、脇本陣2、旅籠35。
鎮魂碑は、白河で戦死した会津藩士を供養する碑で。304名の名前が刻まれている。
田辺軍次君之墓。右の小さなお墓が当初のもので、これは大正になって作られた。はじめ、白坂の観音寺に葬られていたが、旧会津藩関係者により改葬された。
向かいにあるのは長州大垣藩戦死六名墓。
道はぐるっと稲荷山を回り込むかたちで進む。
稲荷山は慶応4年(1868)、白河における戊辰戦争(白河口の戦い)で激しい戦闘があった場所で、奥羽越列藩同盟側の諸藩で約700名が戦死したとされる。
権兵衛稲荷神社。
やがて道はY字路に出て、九番町、七番町、三番町と進んでいく。
天保元年(1830)創業の味噌醤油醸造店の藤屋。今は博物館などになっているようだ。歴史的風致形成建造物。
明治14年創業の呉服店・奈良屋。歴史的風致形成建造物。
街道は十字路を右折することになるが、その角に月夜見の庭がある。白河石が敷き詰められた庭である。
今井醤油店も歴史的風致形成建造物。江戸末期の創業。
皇徳寺に寄る。
墓地には新選組隊士・菊池央(たのむ)の墓がある。弘前出身の新撰組隊士で、白河口の戦いで戦死した。
そして、これは絶対に見たかった、小原庄助(会津塗師久五郎)のお墓。とっくりの上に杯をかぶせたような形。
「朝によし 昼になおよし 晩によし 飯前飯後 その間もよし」という辞世の句が刻まれる。どんだけ飲んだんだか・・・
街道に戻る。
枡形があり、さらに進むと、脇本陣柳屋跡がある。
中が見られるようだったが、時間の関係でパス。
明治天皇白河行在所附御膳水碑もあったようだが、見逃してしまった。
向かいは本陣芳賀家跡だ。
創業明治12年の蔵元、大谷忠吉本店。歴史的風致形成建造物。
ここは萩原朔太郎の妻、美津子の生家である。美津子の兄は酒造業を営みながら詩人として活躍し、朔太郎に師事。その縁で結婚したとのことだ。
もちろん?お酒(白陽)をおみやげに購入する。
本町の四ツ角を左折すると横町に入る。
白河だるまのお店があった。
白河だるまは、時の白河藩主松平定信が城下の繁栄を図り、だるまの技術を習得させたのが始まり。現在のだるまは谷文晁の発案で、まゆは鶴、ひげは亀、あごひげは松、びんひげは梅、顔の下は竹を模様化しているそうだ。
うっかり本町の四ツ角の道標を見逃してしまったが、民家の前に複製があったのでこちらをパチリ。ベンチもあったので少々休憩。
(7へ続く)
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