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2024/12/03

青梅街道歩き(第1回)新宿追分~中野宿~東高円寺3

(2より続き)

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神田川にかかる淀橋を渡る。
中野長者が財が溜まると地中に隠し、手伝った人を殺して橋から神田川に投げ込んだ。長者と橋を渡るときには見えた人が帰るときには見えなくなったことから「姿見ずの橋」と呼ばれるようになった。江戸時代、家光が鷹狩りで通り、不吉でよくないということで京都の淀川に似ているからと淀橋と名づけたという。

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昔の親柱を使っている。

中野坂上の交差点から左に折れてちょっと寄り道。

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小さな公園の一角に象子屋跡の説明板がある。
八代将軍吉宗に献上するためベトナムから連れてこられて象(姫街道で象鳴き坂を通りました!)は、しばらく浜御殿で飼われていたものの、中野村の源助という者に払い下げられ、このあたりに小屋を建てて飼育されたものの、寛保2年(1742)に病死。牙の一部が宝仙寺に保存されているとのこと。

中野坂上の駅を通り過ぎて、その宝仙寺に寄る。
宝仙寺学園は聞いたことがありますね。
源義家が後三年の役を平定して京へ凱旋の途中、陣中に護持していた不動明王像を安置するため創建したお寺という。

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仁王門。

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三重の塔。元は中野第十中学校の敷地に建っていたものの再建。寛永13年(1636)のものだったが戦災で焼失し、平成4年に再建された。

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その手前にあるのが石臼塚。
江戸時代は神田川に水車が設置され、そば粉を挽くために石臼を使っていたが、使われなくなり放置されていたものを供養するために造られたという。こういう塚ははじめてだ。

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中野町役場跡碑。
戦前、中野町役場が置かれていた。

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寛政年間の六地蔵。

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御影堂。

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大きな弘法大師像が安置されている。

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四面に弘法大師が彫られたもの。
22×4面だから88体もありますね。

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一つ一つ、お顔が違う!

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左から四国八十八ケ所五十八番石塔、四国八十八ケ所七十一番石塔。このお寺には四国霊場塔がたくさんあったけれど、全部で70くらいらしい。

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本堂。

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追分だんごで買った豆大福で小休憩し、歩き再開。

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お寺を出て右折したところにやままさ醤油醸造所のレンガ塀が残っていた。
しっくい工法とフランス積みといわれるレンガ積み工法で造られたもの。明治時代は、味噌、醤油の醸造がそば粉製造とともに中野の代表的な地場産業だったらしい。

(4へ続く)

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