街道歩き

2023/03/10

姫街道歩き(第5回) 自動車学校前駅~市野宿~見付宿6

(5より続き)

1_20230307235801

続いて前回寄れなかった遠江国分寺跡に行ってみたが、整備中だった。

2_20230307235801

薬師堂。

3_20230307235801

金堂及び石段跡。

4_20230307235801

お地蔵様には新しいお帽子とマフラーが。

5_20230307235801

1250年前の奈良時代に聖武天皇の勅願で建立された国分寺の礎石をくり抜いて造られた手水石。

6_20230307235801

そして、府八幡宮へ。
ここはホントに真っ暗だったところ。

7_20230307235801

寛永12年(1635)の随身門。

8_20230307235801

寛永12年(1635)(文化年間(1804-18)に再建)の中門。

9_20230307235801

寛永12年(1635)の府八幡宮拝殿(正徳4年(1714)に再建)。

10_20230307235801

拝殿内部。

この日はひな祭り。

11_20230307235901

ひな人形が飾られていた。

12_20230307235901

ぼけ封じの武内社。お守りも売っているらしい。

13_20230307235901

入口にはしっぺい君がいた。

さて駅に向かう。

14_20230307235901

ジュビロくん。通りの向こうにはジュビィちゃんがいたのだが、電車の時間があるので撮影せず。

15_20230308000001

磐田駅到着。

16_20230307235901

そうそう、以前も撮影したけれど、駅前にもしっぺいがいたのだった。

ギリギリ4時12分発の電車に乗れて、掛川到着は4時27分。

いったん改札外に出て、グランドキオスクでおみやげと駅弁を買う。

ビールは買い忘れちゃったけど、構内の売店で買えばいいやと思ったのだ大間違い。

かつてお弁当やがあったところにはコメダが出来ていて、ホームのキオスクは改装中。なんとビールが買えないという(泣)

5時10分発の新幹線に乗り、新富士駅を過ぎたところで夕食。

17_20230307235901

今回の駅弁は納得のいく幕の内。
確かに納得のいくおいしさだったけれど、味付けは濃いめだから、やっぱりお酒が欲しかった(くどい笑)。

東京駅到着6時48分。
中央線は遅れていてちょい時間がかかったけれど、帰宅は8時前。

18_20230307235901

おみやげは、花の舞(家康くんバージョン)、掛川茶、しっぺい饅頭、うなぎいもタルト。

約38500歩。

姫街道、豊川稲荷にはじまり、峠越え2回、みかんにお茶、川越とバラエティにとんだ道でとても楽しかったです。


(完)


マップはこちらを使っています

2023/03/09

姫街道歩き(第5回) 自動車学校前駅~市野宿~見付宿5

(4より続き)

1_20230307011301
妙法寺。
半場善右衛門のお墓があるという。

2_20230307011301

本堂。
このあたりのお寺、ソテツがあるなあ。

3_20230307011301

街道に復帰、ポケットパークに熊野御前の物語の碑があった。
これは第四場。

4_20230307011301

その先にもポケットパークがあり、第五場の碑があった。
どうやら6つのポケットパークに碑があるらしい。残念ながら全部は回れない。

5_20230307011301

その後道はジグザグに進む。のどかな風景だ。

6_20230307011301

智恩斎。

7_20230307011301

ここに一言観音がある。
家康が一言坂の戦いで武田軍に包囲された時、この観音に 「助けてくれ」 と頼んだところ、武田軍の包囲網が崩れ、脱出することが出来たのだそう。

8_20230307011301

一言でお祈りするのは難しいなあ。

9_20230307011301

別のマンホール。市の虫で桶ヶ谷沼に生息するベッコウトンボのデザイン。

10_20230307011301

一言坂を登っていく。
三箇野川の戦いで武田軍に敗れた徳川軍は、浜松城を目指して敗走たが、一言坂で追いつかれ、再び合戦となった。この時敗走する徳川軍を救ったのが、家康重臣の本多平八郎忠勝。平八郎は 「とんぼ切り」 といわれた大槍を振り回しながら一人奮戦し、枯れ草に火をかけ、その煙の中、見事に味方の軍を退却させた。
敵の武田軍も、この時の武勇をたたえ、「家康に過ぎたるものが二つある。唐の頭(兜)に本多平八」 と書いた札を磐田市国府台に立てたと言われている。

いったん国道に合流するが、警察署の脇からまた旧道に入る。

11_20230307011501

と、桜が満開。

かぶと塚公園に寄る。

12_20230307011501

ここには兜塚古墳がある。

13_20230307011501

古墳時代中期(5世紀ごろ)に造られた直径80m、高さ8mの大きさの円墳で、県内最大の円墳だそうだ。上がってみても広い。

14_20230307011501

坂を下って行くと、分岐に元治元年(1864)の常夜燈があった。

さらに進んで・・・

15_20230307011501

ついに姫街道ゴール!!
東海道を歩いた際、この道標は見ていたけれど、まさか歩くことになるとは!

この後は東海道を歩いて磐田駅に向かう。

東海道を歩いた際は、日が暮れてちゃんと写真が撮れなかったところに寄ってみる。

16_20230307012001

西光寺。
表門は、徳川家康が別荘として中泉村に築かせた中泉御殿(のちの中泉代官所)の表門を移築したものだ。

17_20230307011501

寛政元年(1789)の鐘楼門は、ハートだの星だのがついている。恋愛成就・縁結びのパワースポットになっているらしい・・・


(6へ続く)

マップはこちらを使っています

2023/03/08

姫街道歩き(第5回) 自動車学校前駅~市野宿~見付宿4

(3より続き)

1_20230307010401
粒見堂。
永享6年(1434)、妙法寺二代目の僧侶が天竜川に聖観世音が浮かぶ夢を見たところ実際発見されたので、村人たちが穀物(粒)の喜拾を乞うて建立したという。

2_20230307010401

3_20230307010401

左右にお地蔵様。

4_20230307010401

この前には半鐘がついた常夜燈があった。

5_20230307010401

奥にあるのが天白神社。

6_20230307010401

桜がまたまた咲いている。河津桜だろうか。

7_20230307010401

境内にはまたまた半僧坊里程石があった。

8_20230307010401

道が突き当たって川の方に行くと、池田橋の跡碑がある。
池田橋は、明治16年(1883)に架橋された有料の木橋だった。

9_20230307010401

徳川家康が渡船衆に与えた天竜池田渡船許可証のレプリカもある。

10_20230307010401

川の遠くに見える山々はなんだろう。

11_20230307010601

池田の渡し歴史風景館を見学。

12_20230307010601

池田の渡しの歴史などの解説がある。
一言坂の戦に敗れ敗走する家康が天竜川の渡河に難渋していると、船頭方の善右衛門が船頭衆を集め、西岸に無事、渡し、半場の姓をいただいた。善右衛門は武田軍の追撃を阻むため舟と櫓を隠し、その功績から家康より天竜川渡船の権利を賜った。

13_20230307010601
池田宿は間の宿として栄え、どじょう汁などが名物だったらしい。

14_20230307010601

この前に秋葉山常夜燈。石積みが美しい。

行興寺にも寄る。
熊野(ゆや)御前が延久元年(1069)母の死後一宇を建立し、母を弔って暮らした場所だが、藤が有名とのこと。
熊野は見付の国府に赴任した平宗盛(平清盛三男)に見初められたが、母親が病気で暇をねがいでたものの許されなかった。が、涙ながらに読んだ和歌を聞いて哀れに思った宗盛は願いを聞き入れて熊野は故郷に戻ったのだそう。

残念ながらこの季節では木しか見られない。

15_20230307010601
が、立派な藤が並んでいる。樹齢300年の長藤。

16_20230307010601

こちらは樹齢850年。

17_20230307010601

熊野御前と母の墓。

18_20230307010601
お墓の上にも藤がありますね。


(5へ続く)

マップはこちらを使っています

2023/03/07

姫街道歩き(第5回) 自動車学校前駅~市野宿~見付宿3

(2より続き)

東海道に合流した。
懐かしい。

1_20230307004801

東海道を歩いた際は休館日(水曜日だった)だった金原明善生家に寄る。

2_20230307004801

築200年の屋敷を改修、資料館として公開されている(無料)。

3_20230307004801

金原明善は、度々大洪水を引き起こしていた天竜川の治水事業に私財をなげうち、生涯をかけて取り組んだ人物である。植林事業、出獄人の保護なども行っている。

13分ほどのビデオをみせていただき、その後じっくり見学。

4_20230307004801

5_20230307004801
立派な御屋敷だ。

6_20230307004801

庭もいい。

7_20230307004801

金原鎌なるものもあったんですね。

8_20230307004801
松林禅寺にも寄る。
前に寄った記憶が抜け落ちていたけれど、一応寄っていたらしい・・・

9_20230307004801

門の下にお地蔵さん。

10_20230307004801

向こうに見えるのは薬師堂。家光が浜松城主に命じて建立させたもので、寺自体は二度焼けているが、薬師堂は焼失をまぬがれたという。

11_20230307005001

本堂。

12_20230307005001

別のマンホール。浜松まつりの凧揚げ合戦の凧のデザイン。

さてお昼。
東海道を歩いた際にも入ったうなぎのお店中川屋さんである。

13_20230307005001

うな重をいただく。
柔らかくておいし~
おなかいっぱいになって出発。

14_20230307005001

六所神社。三柱の海神と三柱の航海の守り神の六柱の神様が祭神として祭られる。

15_20230307005001

横町通りを通り、ポケットパークを抜けて、新天竜川橋を渡る。
東海道を歩いた時は暴風雨でずぶ濡れになって大変だったが、今回は若干の風だけでよかった・・・

磐田市に入る。

16_20230307005001

まず見つけたマンホールは熊野(ゆや)の長藤を中心に置き、周りにも藤を配置したデザインだ。

池田入口交差点を右折するのが東海道だが、姫街道は左折。
途中から細い道へと入っていく。

17_20230307005001

この常夜燈は前に扉がついている。政9年(1797)の常燈明と刻まれた常夜燈だ。

18_20230307005001

天竜川渡船場跡碑。もっとも水量が少ない時に使われた下之渡跡。
ここの渡しは、水量によって上中下あって、水量が多い方から上中下が使われたのである。

(4へ続く)

マップはこちらを使っています

2023/03/06

姫街道歩き(第5回) 自動車学校前駅~市野宿~見付宿2

(1より続き)

1_20230306001401

なんか、猫が匍匐前進して、何かを狙っている!
と思ったら、リスだ!!こんなところにもいるんですね。

2_20230306001401

ここには延享3年(1746)の遠州地方最大の宝篋印塔がある。確かに大きい。高さは3.5メートル以上あるらしい。

3_20230306001401

もう一匹の猫。

4_20230306001401

何かを無心に食べるリス。

5_20230306001401
リス、近づいても全然にげません。

6_20230306001401

はじめ場所がわからなくてさんざん探してようやく見つけた経塚。郷中と刻まれているそうだが、ほとんど見えない。

7_20230306001401

なんのことはない、入口近くの秋葉山常夜燈鞘堂の前にあったのだった。

8_20230306001401

その先で市野宿へと入ってきた。道は枡形になっている。
江戸初期には安間からここを通り、気賀に向かう経路が一般的だったが、明和の頃から、浜松~三方原~気賀を通るルートが主流となって、寂れてしまった。遺構は何もない。本陣(斎藤本陣)も現存していない。

市野宿あたりの道は狭いのに、車が結構通るので、歩く時ヒヤヒヤする。

9_20230306001401

前回もいくつか見ている半僧坊里程石があった(手前にもいくつかあったらしいが見逃す)。「右 金さし 平口ふどう 左 きが 金さし」と刻まれている。笠井道(笠井観音のだるま市が有名らしい)との分岐となる。

10_20230306001401

安間(あんま)川(天竜川に合流する)と渡り、池田道との分岐では安間道を今回は選択することにした。

11_20230306001601

大正十二年(1923)建立の常夜燈。

12_20230306001601

奥には長泉庵があって、馬頭観音が安置されているとのことだったが、これがそうかな?

13_20230306001601

外には馬神、馬頭神供養塔があった。日光街道でいくつか見たものだ。

14_20230306001601

嘉永五年(1852)建立の手水鉢。

15_20230306001601

半僧坊里程石「半僧坊道 五里廿六町」。

16_20230306001601

了願公園は安間村の庄屋だった安間家の屋敷跡。安間了願がこの地を開拓した。
現在は安新町といって、安間新田の地名を短縮したものなのだそうだ。

17_20230306001601

国道1号線を越えてちょっと寄り道。
普伝院。

18_20230306001601

地蔵堂(千体堂)にはたくさんの仏像が。
戦国時代、天竜川沿いの戦いで討死した徳川、武田双方の将兵を供養するため、村人の浄財で千体の木彫仏を安置した千体堂を姫街道沿いに建立し現在、その千体堂は普伝院に移されているという。

19_20230306001601

数えられないけれど、ホントに千体あるのかな?

20_20230306001601

安間稲荷。

21_20230306001701

半僧坊里程石もあった。是・・・六と見える。

(3へ続く)

マップはこちらを使っています

2023/03/05

姫街道歩き(第5回) 自動車学校前駅~市野宿~見付宿1

姫街道歩きの最終回。
姫街道もいろいろなルートがあるけれど、安間道を通り、池田の渡しを見て、見付でゴールとすることとした。

6時半のこだまに乗り、浜松駅から新浜松駅へと歩き、8時36分発の遠州鉄道に乗る。

1_20230305160001

前回帰りは2両編成だったと思うが、朝だからか4両編成。

2_20230305160001

8時48分、自動車学校前駅到着。ここから姫街道歩きスタート。

3_20230305160001

大養院に寄ろうとしたら、その前に桜が咲いているのが見える。
これはなんだろう?

4_20230305160001

大養院の前に秋葉常夜燈鞘堂があるが、なんと上にしゃちほこがのっている!
下は最近新しく作られたものみたいですね。

5_20230305160001

山門。

6_20230305160001

六地蔵。中央の観音様は手がたくさん。

7_20230305160001

本堂。木の手入れがよくされていますね。

先を進むと道は直角に曲がる。

8_20230305160001

すぐ先に小池一里塚跡。65里目。

向かいにあるのが長福寺。延宝4年(1676)創建。

9_20230305160001

古い六地蔵と・・・

10_20230305160001

新しい六地蔵。

11_20230305160201

このお墓(丸いもの)は、この地の木綿栽培普及に功績のあった第二代住職北堂和尚の墓である。

12_20230305160201

地蔵堂の中には黄金の地蔵菩薩立像と弘法大師像がある。

13_20230305160201

はじめてみるマンホールがあった。
真ん中が浜松市の市章、まわりに波、ビル、山などが幾何学的にデザインされている。

14_20230305160201

こちらは、旧市章と、旧市の鳥の燕、旧市の木の松、旧市の花のはぎ。なんかかわいらしい。

15_20230305160201

再び道が曲がると、八丁とうもと言われるまっすぐな道が続く。
とうもとは田の面、水の張られた田表のことだそう。田んぼの中をまっすぐのびる道だったのだろうか。
八丁畷と同じだろうか。

16_20230305160201

八丁ほど歩いて熊野神社到着。

17_20230305160201

楠かな?とても大きい。

18_20230305160201

拝殿。

(2へ続く)

マップはこちらを使っています

2023/02/22

姫街道歩き(第4回) 気賀宿~自動車学校前駅4

(3より続き)

1_20230219182101

追分一里塚。66里目。
南側のみ現存だが、これも低いですね。

三方原台地から二重坂を下り、豊隆団地交差点から左の旧道へと入る。

2_20230219182101

入ったところにあるのが浜松市域の姫街道最古の道標で、天保3年(1832)のもの。いまいち読みづらいけれど、「右 きが かなさし」「左 庄内道」と彫られているようだ。

3_20230219182101

秋葉常夜燈鞘堂。
このあたりから宇藤坂を下って行く。

4_20230219182101

立派な御屋敷が多い。槙の垣根が続く。

5_20230219182101

左折して見に行ったのは旧俊光将軍社。坂上田村麻呂の子俊光が武勇の守護神として祀られていたが、明治40年、このあと行くことになる有玉神社に合祀された。

6_20230219182101

街道に戻って、さらに宇藤坂を下って県道に出てふと左を見ると、富士山が見えた!!
このあたりからも見えるのですね。

階段を降りてさらに下る。

7_20230219182101

馬込川を五枚橋で渡る。かつてはもう少し下流の方にあったらしい。

8_20230219182101

このあたりから半僧坊里程石がたくさん見られるようになる。
これは四里廿丁。
明治14年に奥山方広寺で大火があったが、半僧坊本殿は焼失を免れ、半僧坊への信仰が高まって参拝者が急増。そのため、多くの里程石が設置されたのだそうだ。

9_20230219182101

少し前から次々と降りて行く飛行機が見えたが、航空自衛隊の浜松基地がすぐ近くにあるわけですね。

10_20230219182101

最後の寄り道、有玉神社。
高速をくぐって行く。
家康が大阪の役から帰陣する際、戦場で乗った馬を寄進したことから、流鏑馬が行われるようになったそう。

11_20230219182301

俊光将軍社。

12_20230219182301

八幡大菩薩。なぜか、割烹着を着ている??

13_20230219182301

拝殿。

街道に戻り、自動車学校前駅に到着。
切符を買って時刻表を見ると、あと1分もないうちに3時44分の電車がくる!ということで慌ててホームへ。

14_20230219182301

赤い電車が入ってきた。

12分で新浜松駅到着。少し歩いて浜松駅へ。
ささっと駅弁とおみやげを買って、4時25分のこだまに乗り込む。

15_20230219182301

かなり早めではあるが、5時過ぎに駅弁タイム。
今回はしらす弁当。と静岡麦酒。
一日に必要なカルシウムの2分の1の量を摂取!

16_20230219182301

まだまだ明るかったので、富士山の写真も撮れてごキゲンだ。

17_20230219182301

日が沈む頃の富士山。

東京には6時18分着。順調に乗り継いで帰宅は7時半前だった。

18_20230219182301

おみやげはまるたま製茶おおちゃと焙じ茶葛餅、浜松駅の直営店で買った花の舞純米吟醸。

約35300歩。寄り道がいろいろあったので、それなりに歩きました。

次回はいよいよゴールです。

(完)

マップはこちらを使っています

2023/02/21

姫街道歩き(第4回) 気賀宿~自動車学校前駅3

(2より続き)

1_20230219181001
松並木を進む。

2_20230219181001

権七商店・・・ごんひちというお店があった。
三方原追分からずっとうっそうとした松並木が続いていて、寂しいところだった。約100年以上も続いた権七店の店先には山桃の木があって、そこに馬方は牛馬をつないで休憩した。店では、駄菓子、だんご、お酒などを売っていた。

3_20230219181001

三方原救貧院跡の石柱。
明治10年、気賀林(豪商)が困窮した士族の救済施設を設立。
間口八間、奥行き三間半の木造平屋建て瓦葺きの建物で、最大四家族ほどを収容、米麦、味噌、醤油、薪炭等を支給し救済したという。

ちょっと寄り道。

4_20230219181001

本乗寺に寄る。

5_20230219181001
ここには精鎮塚がある。
三方原の戦いの戦死者をまつるために建てられたといわれているもので、昔は権七商店のそばにあったが大正期にこの寺に移されたのだそうだ。慰霊のため、盆と12月25日にそば供養が行われるとのこと。

家康関係の場所には、家康公ゆかりの地というのぼり幟があるんですね。盛り上げようと頑張ってるな。

続いて三方原神社へ。裏から入る。
この神社は、旧浜松城内で祀られていた東照宮が移されたもの。御祭神は家康だが、秀忠、家光も合祀されている。

6_20230219181001

不動堂。

7_20230219181001

不動明王は道標を兼ねている。「右はま松道 左いけ田道」と彫られている。

8_20230219181001

扶持米倉庫跡。この地に倉庫を建てて扶持米を貯蔵、士族たちに支給した。

9_20230219181001

四勇士の碑。
昭和12年、4人乗りの重爆撃機がエンジン故障で墜落したが、搭乗員が人家の無い場所を選んで墜落したのを見た住民が慰霊のため建立した。三方原には陸軍の飛行場があったのだ。

10_20230219181001

第18代徳川恒孝公お手植えの松。

11_20230219181101

三方原開拓の碑。
かつての製茶場が経営不振で明治35年閉鎖。国のものとなると森林とされてしまうと心配した地元名士が購入し住民に分割。開拓地を荒廃から守った7名の功績をたたえて碑が作られた。

12_20230219181101

三方原小学校発祥の地碑。

13_20230219181101

大正2年の石鳥居の向こうに見える拝殿。

14_20230219181101

出たところには気賀林(三富翁)の碑があった。
明治2年、三方原開拓係となり、士族800戸の三方原入植の受入事業を完遂、明治6年からは茶園の開拓に専念、百里園長として百ヘクタールの茶園の育成と製茶工場の経営を成功させた。その後、三方原救貧院の創設をはじめ、福祉・教育・社寺への寄付等、地域行政に大きく貢献した人物ということだ。
この神社、碑が多いですね。

15_20230219181101

さて街道に戻り、松並木を進む。

16_20230219181101

追分も近づいてきて、そろそろ松並木も終わりだ。

17_20230219181101
手前が姫街道で一番太い松。

18_20230219181101

清田定春の姫様行列が描かれた建物。手前には姫まつ灯籠があった。

19_20230219181501

20_20230219181101

元追分の交差点にきた。真ん中に「奥山半僧坊大権現へ三里廿九丁」の里程標と慶応4年(1868)の道標があって、「右 みやこだ 中 かなさし 左 きが」と彫られている。

三方原追分である。
我々は見附の方面へと行く。


(4へ続く)

マップはこちらを使っています

2023/02/20

姫街道歩き(第4回) 気賀宿~自動車学校前駅2

(1より続き)

1_20230219175601
次第に明るくなってくると・・・

2_20230219175601

姫の絵が描かれた配水タンクがあった。ここからはまた舗装路に。

3_20230219175601

すぐ先に老ヶ谷の一里塚跡があった。68里目。
かつて近くには富士見茶屋があったという。

4_20230219175601

このあたり、収穫は終わってしまっているが、若干のみかん畑が残る。

5_20230219175601

千日堂。
老ヶ谷原山新開発の褒賞として建てられ、寛文11年(1671)呉石の近藤家下屋敷にあった観音石像を移して祀られている。宝永年間に千日念仏を行ったため千日堂と呼ばれるようになった(現在でも毎月9日に念仏講が続けられているそうだ)。

6_20230219175601

文化8年(1811)建立の秋葉常夜燈。
このあたりからも秋葉神社へと詣でる人たちがいたんでしょうね。
秋葉道は何ルートかあるようだけれど、いずれも最後の方が交通の便が悪そうだ。

ここを左折。

7_20230219175601

しばらく歩くと六地蔵があった。正徳2年(1712)建立。
昔のこの裏の竹藪に刑場があり、刑死者の霊を弔うため建てられたという。

8_20230219175601

その向かいの道標には「右 大山 和地 庄内 方面」 「左 浜松方面」 と刻まれる。

ほどなく県道に合流した。

9_20230219175601

カーブミラーに姫様がついている!さすが姫街道!

10_20230219175601

曲がり松。
500年以上たっているにしては小さい・・・と思ったらこれは三代目。
でもちゃんと曲がってる!
姫街道と庄内二俣線(旧道)の交差点で、江戸時代には、気賀の領主や街道を通る行列を送迎した場所だったそう。

11_20230219175901

松島十湖句碑。
「別れるは また逢ふはしよ 月の友」友との別れはまためぐり会うきっかけだよ、という意味なのだそう。

そのすぐ先のまるたま製茶に寄る。自社農園でのお茶を販売する。
おみやげのお茶とほうじ茶葛餅を購入。

道は下っていく。

12_20230219175901

途中の法面の急な階段を上がっていくと、大谷の石仏があった。
他にも石造物があったが、なんだかわからず。

大谷川を大谷橋で渡り、今度は道を上がっていく。
昔はこの川を飛び石を渡って通行したとのこと。

13_20230219175901

お茶畑が見えてきた。

14_20230219175901

ここに江川永脩屋敷跡碑がある。
この人物は江川太郎左衛門の一族。へー、36代目はあの韮山反射炉の建設をした人なんですね。
永脩は明治にはいって入植、茶園を造営したが断念。今では茶畑となっている。

15_20230219180101

このあたりから松並木がはじまる。
昭和27年の大火により消失した小学校の再建のために北側は伐採されてしまったが、片側は3.8キロに渡って残っており、200本以上あるという。

ほどなく、カントリーレストランこくりこ大山店に到着。12時少し前。
中に入ってみると五組待ちでどうしようかと思ったが、この先で食べるとすればまだだいぶ歩かないといけないので、待つことに。
それほど待たずに案内されたけれど、人気店なんですね。

16_20230219175901

注文したのは、ふわふわお好み焼き。
折りたたまれているのかな。確かにふわふわでおいしい!
結構ボリューミーでおなかいっぱいになった。

外に出てみると、結構な強風。天気予報でも午後から強い風になるとのことだったのだが、それほど寒くはない。

大山入口交差点の手前に東大山一里塚がある。67里目。
両塚残っているけれど、低いですね。だんだん低くなっちゃったんでしょうか?

17_20230219175901

北側。

18_20230219175901

南側。

19_20230219175901

南側の塚の手前には馬頭観音がある。
といっても、馬頭には見えないんだよな~

(3へ続く)

マップはこちらを使っています

2023/02/19

姫街道歩き(第4回) 気賀宿~自動車学校前駅1

先々週に続いての姫街道歩き。
前回、気賀四ツ角で終えていたので、そこまでバスで行って再開のはずだったのだが、うっかり犬くぐり道を前回見るのを忘れてしまい、とても残念な気持ちだったので、少し戻ることにはなるが見ようということになった。

東京駅6時半のこだま自由席に乗り、浜松駅到着8時18分。
8時30分発気賀駅行きの遠鉄バスに乗る。三方原の追分からはほぼこの日歩く道である。
バスは15分ほど遅れて9時40分前に到着。早速歩き始める。

1_20230219153901

前回行った浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館のすぐ先が、犬くぐり道だったのだ。

2_20230219153901
これまた前回飛ばしてしまった東林寺。
貞観6年(864)、行基の開基。後醍醐天皇の皇子、円明大師が暮らしたという。
山門が立派だが、これは奥山方広寺から嘉永7(1854)年に移された。

3_20230219153901

さて、犬くぐり道。
ちゃんとむしろが垂らしてある!みおつくしのマークが描かれている。ちょっとかがんで下を通ってみる。
いやはや、あらためて行ってみてよかった。

街道に戻る。

4_20230219153901

ポケットパークのところが実質的なスタート地点だ。

5_20230219153901

天竜浜名湖鉄道の高架をくぐる。ちょうど電車が通らないかな~と思ったけれど、残念!一時間に1本ではね・・・

6_20230219153901

都田川を落合橋で渡る(うっかり宝生地蔵を見忘れる・・・)。

7_20230219153901

右が都田川、左は井伊谷川。川が落ち合う場所にかかっているので落合橋というのですね。
かつて落合の渡しで川を渡っていたが、明治になって旧落合橋が架けられた(その後新しい落合橋が架けられている)。

橋を渡って下に降り、少しだけ川べりを進んで右折。この曲がるところあたりに昔渡しがあった。

8_20230219153901

金襴池の伝説の説明板を見て(刑部城の城主の美しい姫が、攻め込んだ家康の軍に捕らえられないよう、池に入って金襴の蛇に姿をかえたという伝説。今は池はない)、ぐるりと刑部城址のまわりをまわっていく。

9_20230219153901

水田が広がる。条里制により造られたもので、近年まだ地割が残っていたという。

10_20230219153901
城址はこんもりとした丘になっている。

11_20230219154001

上にあがってみると、金山神社となっているけれど、お城にしてはちょっと小さいような?永禄11年(1568)年落城。

県道をわたって旧道を先に進む。

宗安寺の参道を上がってみる。

12_20230219154001

梅が咲いている。

13_20230219154001

跡地には何もない(奥に地蔵があったらしいが)。明治の廃仏毀釈で廃寺となり、山門は気賀の正明寺(前回に見た)に移転した。
天生5年(1587)、この先の長坂で何者かに殺された服部中保次を弔うために建立された。

ちょっと寄り道。

14_20230219154001

その服部中保次の墓を訪ねる。
この人物は、桶狭間の戦いで織田信長の家臣として今川義元を討ち取った服部小平太と解説にあったが、同一人物ではないという説もあるらしい。

15_20230219154001

元に戻って、秋葉鞘堂のところを上がっていくのが街道(長坂)。

16_20230219154001

中には復元された燭台があった。

17_20230219154001

土の道を上がって途中一回新道を横切る。

18_20230219154001

さらに山道を上がっていくと・・・

19_20230219154001

途中には服部中保次(小平太?)最期の地の碑がある。

(2へ続く)

マップはこちらを使っています

より以前の記事一覧

twitter

google


  • Google

    WWW
    ブログ内

amzon